平清盛は生前、後白河法皇を幽閉し、平家の専制政権を築き上げましたが、貴族や地方武士たちの平家に対する不満は強く、そのうちでも強大な勢力だったのは源氏の統領にあたる源頼朝(1147~99)でした。平家との争いの平治の乱(1159)で討たれた源義朝の三男で、本来なら一族すべて死罪となるところをまぬがれ伊豆へ流罪となっていました。後白河法皇の第2皇子である以仁王(もちひとおう)の平家討伐の令旨を受け、妻北条政子(1157~1225)の父北条時政(1138~1215)らと挙兵しました。頼朝の弟源義経(1159~1189)の活躍により平家を西国へ追い立て、長門国壇ノ浦の海戦で滅亡させたのでした。この時、ともに海中に没した幼帝安徳天皇(1178~1185)とともに天皇家の三種の神器のうち鏡と勾玉(まがたま)および草薙の剣も海中に没し、鏡と勾玉は回収されましたが、剣は見つからず後に伊勢神宮より奉られたといいます。

頼朝は平家と違って、都の政治にこだわらず征夷大将軍として東国に鎌倉幕府を開き武家を中心とした国を形成していくのですが、53歳で亡くなっています。死因は言い伝えによると相模川橋供養の帰路、落馬したことによるとなっていますが、吾妻鏡などの歴史書にも正確な情報は書かれていません。もともと武家の統領として担がれて幕府を開きましたが、弟源義経や従兄弟の木曽義仲など一族をことごとく死に追いやり真の味方がいなかったこともあり北条時政に暗殺されたなどとも言われています。
しかし落馬が本当だったとすれば、武士が簡単に落馬するものかなど考えると、何らかの原因疾患があったと想像できます。明治時代の医学史家・富士川游氏は頼朝の死因を脳出血であったとしています。脳出血の症状は比較的早く現れ、手足が麻痺してこれが原因で落馬したのではないかというのです。他方、脳血管疾患のうち脳出血以外に、以前より脳梗塞などがあり、これが原因で軽度の脳血管性認知症を患っていたのではないかと想像できます。さらに脳梗塞の原因として糖尿病を想定します。関白・近衛実家の日記に「前右大将頼朝卿、飲水に依り重病」という記載があるそうで、医療の歴史(53)で述べた藤原道長と同じくその当時の「飲水病」すなわち糖尿病の存在を考えるとつじつまが合います。脳血管性あるいは前回ご紹介した糖尿病性認知症の症状により衝動の抑制ができず、自分の兄弟に対しても懐疑心が強くなり、最終的に血縁をすべて殺害していったのではないかとすると幕府を開く前後の頼朝の行動が理解できると思います。
















そこでスマートフォンやパソコンなどの使用は
肺炎球菌は
ところで、この11月14日はインスリンを発見したフレデリック・バンティング(1891~1941、右の写真)の生まれた日です。インスリン発見の経緯については以前「医療の歴史(26)」でご紹介していますので、次のアドレスをクリックしてご覧下さい。
よって東大寺に奉納されました。それが校倉造りで有名な正倉院の御物となって今日に伝わっていますが、服飾、調度品、楽器、武具などがあり、唐ばかりでなく、遠くシルクロードを経た西アジアや南アジア渡来の品々が含まれています。御物それぞれの由来が明確にされており、管理が厳重で保存状態がよいことから、校倉造りという建築物そのものと共に、国際的な美術品として知られています。





























胃ガンはかつて日本人に多い悪性腫瘍で、死亡率も高率でした。近年、健診などがきっかけで早期ガンのうちに発見されることが多くなり、治療成績もたいへん良くなっています。さらにピロリ菌検査をして、もし陽性なら抗生物質で除菌することが胃ガン予防になると考えられます。右の図は日本ヘリコバクター学会が発行している冊子から引用したものですが、これからも明らかなようにピロリ菌を除去することが胃ガンの発生を予防することにつながります。




























アスピリン(薬品名はアセチルサリチル酸)という薬があります。昔から鎮痛薬や解熱薬として用いられてきましたが、服用している人のなかに出血症状が出現することがありました。その後よく調べてみると、アスピリンには止血に必要な血液細胞である血小板にあるシクロオキシゲナーゼ(
右の図のようにカルシトニンと副甲状腺ホルモンはカルシウムの動きに対してお互いに拮抗的に働いているのです。骨からすると、カルシトニンのほうがカルシウムを増やしてくれて、骨を強くしてくれるので強力な味方になります。骨の量が減ってしまう「骨粗鬆症」という病気がありますが、この治療薬としてカルシトニンをお薬にした「カルシトニン製剤」が作られています。
「ペスト」は、ペスト菌が原因でおこる病気です。現在の日本では感染症法で最も危険な一類感染症に分類され、感染者を隔離して治療することと定められています。もともとはネズミに流行するものですが、感染したネズミの血を吸ったノミに刺された人に感染が広がります。かつて感染者は皮膚が黒くなり死に至ったことから「黒死病」と呼ばれていました。現在では抗菌剤の投与が有効で、適切に治療を行えば後遺症を残すことなく治癒しますが、抗菌剤がなかった昔は致死性が高く恐れられていました。そもそもペスト菌が原因で流行するということも解らなかったわけですから、多くの人が「ペスト」で命を落としました。

ところでローマ時代の医学・医療を語るとき外すことができない人物がガレノスです。(右はギリシアで発行されたガレノスが描かれた切手です。)
また「ヒポクラテスの誓い」は
古代ギリシア時代の医師、ヒポクラテスは「医学の父」、「医聖」などと呼ばれています。それは彼が人々の病気を迷信や呪術、また宗教のような扱いから切り離し、科学的な医学を最初に発展させた人だからです。(写真は兵庫医科大学の玄関ホールにある「ヒポクラテスの像」です。)
