医療あれこれ

医療の歴史(49) 光明皇后と医療

 藤原四兄弟(医療の歴史47)の父で栄華を誇った藤原氏の実質的な開祖、藤原不比等は長女である宮子を文武天皇の夫人に入れ生まれた皇子(後の聖武天皇:医療の歴史48)の即位を計りました。さらに県犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)との間にできた娘の光明子も聖武天皇の夫人として、天皇家と藤原氏の密接な結びつきを築いていきました。光明子(光明皇后)は仏教を深く信仰していた母の影響もあり、仏教へ帰依して厚い信仰心を持っていたそうです。このことが疫病流行に対して国分寺や大仏建立に至った聖武天皇に大きく影響したと考えられます。

 光明皇后の施療は「あまねく人々を救えば、未来永劫、疫病の苦しみから逃れられる」という仏典をよりどころにしています。医療の歴史(40)で、聖徳太子が四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四院を建てたという伝説は定かではないことをご紹介しましたが、施薬院や悲田院は光明皇后によって本格的なものになっていったようです。この二院は723年、興福寺に置かれました。興福寺はもともと藤原鎌足の病気治癒を祈って京都の山科に建てられ、山階寺として藤原氏の氏寺でしたが、藤原不比等がこれを藤原京に移し、さらに都が平城京に戻ったとき興福寺として現在ある奈良の春日野に移されたものです。

 光明皇后が立后した翌年、興福寺に施薬院と悲田院が設けられたのです。施薬院は皇后宮職の管理下で役人が置かれ、医師・鍼師らの医療に必要な薬草を諸国から買い集めていました。医疾令では、医療職が病人のいる家を巡り治療することが定められていましたが、典薬寮の医師は施薬院から入手した薬をもって都中を廻り、病家に薬を与えていたそうです。さらに自宅では保養できない人、さらに孤児たちを悲田院に収容していました。

karafuro2.jpg また光明皇后でよく知られる話は、浴室での施療です。奈良市の平城京跡に隣接して、光明皇后が病人の治療のために建てたとされる法華寺がありますが、このなかに浴室が残されています。これは古くから「からふろ」と呼ばれており、サウナ風呂のような蒸し風呂だったのでしょう。光明皇后は「からふろ」で、千人の民の汚れを拭うという願を立てました。ところが、千人目の人は全身の皮膚から膿を出すハンセン病者で、皇后に膿を口で吸い出してくれるよう求めたため皇后が病人の膿を口で吸い出すと、たちまち病人は光り輝く如来の姿に変わったという逸話が残されています。