医療あれこれ

医療の歴史(53) 平安時代の始まり

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 平城京が都であった奈良時代、大仏を建立した聖武天皇の頃はよかったのですが、後期になると僧道鏡が天皇の位に就こうとするなど(医療の歴史51)、それまでの仏教政治に歪が目立つようになりました。これを一掃するねらいも含めて、桓武天皇は都を移すことにしたのです。初めは山背国(やましろのくに)長岡の長岡京(現在の京都府向日市あたり)に遷都しましたが、これには平城京の貴族らの中にも強硬に反対する勢力もあり、桓武天皇の腹心だった藤原種継が暗殺されるなどの事件がおこり、最終的に794年、山背国葛野(かどの)宇陀(うだ)、現在の京都市に再遷都されました。平和で安心できる世の中であることへの願いを込めて平安京と名付けられたのです。以後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くまでの約400年間を平安時代と呼ぶのはご存知の通りです。

 平安時代の全般的な医療の特徴は、それまでの遣唐使が廃止され、大陸から新しい医療が直接もたらされることがない分、わが国独自の医療が築き上げられていきます。その典型が医療の歴史46でご紹介したように、医書が編纂されたことです。なかでも丹波康頼による医心方は、長年朝廷で保管されていたこともあり、全てが現存している貴重な資料です。しかしこのような一流の医学は都に在住するごく限られた身分の高い人にしか施されませんでした。庶民のほとんどは古代からの民間医療や、僧らによる加持祈祷に頼ったものだったのです。特に、平安時代には非業の死を遂げた人の恨みが現世に祟をなす怨霊の存在が信じ込まれており、人の病、とくに疫病の流行はすべて怨霊の仕業であると考えられていました。平安遷都にあたっての争いから反対派により幽閉され自害した桓武天皇の弟で皇太子だった早良親王(さわらしんのう)を祀ったのが御霊会の始まりです。平安時代には御霊会が盛んにおこなわれるようになり怨霊を鎮めるため、非業の死を遂げた人を神として祀るようになります。その代表的なのが、藤原氏の陰謀の犠牲となった菅原道真が天神として祀られた北野神社ですが、このことは改めて述べたいと思います。