医療あれこれ

医療の歴史アーカイブ

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 医療を発展させていくためには、人の体やその周囲で起こっていることを肉眼的に見て観察するだけでは不十分で、新しい機器が必要になってきます。その中で、顕微鏡は感染症の原因となる微生物を発見したり、人体の細部を観察するため必要不可欠なものといえるでしょう。

 顕微鏡を初めて作ったのはオランダの眼鏡屋さんだったハンス・ヤンセンとその息子のツァファリス・ヤンセンとされており1590年のことです。後にイギリスの物理学者ロバート・フックは顕微鏡を使っていろいろな細胞を観察し、「顕微鏡図譜」を発行しています。右の図はそのフックが使ったとされる顕微鏡です。

顕微鏡の技術を使って、人体、動物、植物に関する多くの新しい事実を発見したのが、イタリアのマルチェロ・マルピーギという人です。1661年、マルピーギは、人体構造のうち、組織の毛細血管の中を流れる血液を直接観察しました。医療の歴史(9)で説明したように、1628年、ウィリアム・ハーヴェイが血液循環論を確立して、人の血管には動脈と静脈があることを初めて報告していますが、彼は動脈と静脈をつなぐ細かい網の目状の血管―毛細血管を発見することができませんでした。マルピーギによる毛細血管の発見はハーヴェイの血液循環論に決定的な証拠を付け加えたのでした。

その後、顕微鏡は細菌学の発展に大きく貢献します。細菌学や原生動物学の父とされているのが、オランダ人のアントニー・ファン・レーウェンフックという人です。フレーウェンフックは、もともと医学者でも科学者でもなかった人で、呉服屋さんだったそうですが、微生物や寄生虫などを細かく観察しています。しかし、彼自身は1723年に亡くなるまで、それらの発見を書物として著してはいませんでした。のちの人々が彼の業績を記録として残し今に伝えられています。

顕微鏡により微生物が人に発症する感染症の原因であることまでは判ってきました。しかしそれはバクテリア(細菌)までの発見で、細菌よりはるかにサイズが小さいウイルスはレンズを使った光学顕微鏡では見ることができません。ウイルスを詳しく観察するためには電子顕微鏡が必要で、20世紀になるまで待たなければなりませんでした。ちなみに黄熱病の研究で有名な野口英世は、黄熱病の原因が細菌であると考え、研究を続けていました。しかし実際はウイルスによるもので、光学顕微鏡を用いて研究を続けていた野口英世は黄熱病の病原体を発見することができないまま亡くなってしまったのです。


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 以前にも少しふれましたが、内科医の祖先は神々の仕業によって発生した病気を「祈とう」によって病気を治そうとする「祈とう師」であったのに対して、外科医の祖先は刃物を使って仕事をする散髪屋さんでした。そこで床屋外科という呼び名が生まれてくるのです。本当のことは定かではありませんが、散髪屋さんの三色のサインポールは理髪師が外科医を兼ねていた名残だと言われたりします。つまり赤は動脈、青は静脈、白は包帯をあらわしているというのです。しかしこの説は少し矛盾があります。血管には動脈と静脈があることが明らかとなってきたのは、医療の歴史(9)で説明したウィリアム・ハーヴェイが血液循環を明らかにした17世紀になってからのことです。一方、三色のサインポールができたのは13世紀のイギリスだとも言われており、歴史的に一致しないことがいくつかあります。

 ところで中世には、理髪師兼外科医が職業化されてきました。当時、病気の原因となる悪い血液を取り去ってしまうという目的で瀉血(しゃけつ)という治療法が行われていました。体から血液を抜き取るためには刃物で体に傷をつけて出血させることが必要で、これは正しく外科医の仕事だったのです。しかし時代の経過とともに、このように内科医の下働きのような仕事だけをする外科医ではなく、次第に簡単な手術をしたり、骨折の治療や出産の介助などをするなど、専門的な外科医が生まれてきます。

 そもそも今の医学・医療を考えると、「外科」と「内科」はその名前の「内」と「外」が逆ではないのかと思われないですか。つまり内科医は自分で刃物を使って病気の人の内側を見ることなく治療を行います。つまり外側から治療をしているにもかかわらず治療法の名前は「内科的」治療といわれます。それに対して、外科医は刃物を使った手術で直接、病気の人の内側を見て、悪い部分を切り取ったりつないだりして病気を治します。内側に直接手を下しているにもかかわらず、その治療法の名前は「外科的」治療といわれているという矛盾があります。これは歴史的な事実によるものだと思います。それは大昔、刃物を使って治療をする治療はとても体の内側の病気に対応できなかった。刃物は体の外側にできた腫瘍を切り取ったり、傷の治療にしか使うことができなかったのです。体の内側から発生したと「診断された」病気は、外科医ではなく内科医の担当でした。昔は、ほとんどの病気治療は内科医の仕事だったと思われます。

 いずれにしろ、手術という外科医の仕事が科学的、安全に行われるようになり、外科と内科が対等になるのは、もう少し時代が下ってからになります。


 錬金術とは、どこにでもある金属から、さまざまな手法を用いて、金などの貴金属を作ろうとするものです。中世のヨーロッパでは、これが盛んに行われ、科学というより魔法に近い意味や、お金儲けのからくりのようにも考えられています。ある技術を用いると、人間が不老不死になるなどといったことが信じられていました。

PA0001.jpgしかしその試行錯誤の過程から、硫酸や塩酸などの化学薬品が発見されてきたことは、学問的に大きな科学的発展ということができます。錬金術師の中でも医学的発展に貢献した人がパラケルスス(1493~1501)でした。パラケルススとはあだ名で、本名はフィリップス・アウレオルス・テオフラトス・ボンバストス・フォン・ホーエンハイムという大変長い名前だそうです(右の写真)。それまでの医薬品といえば、ほとんどが草根木皮であったものが、パラケルススは水銀、アヘン、砒素、銅、硫黄など多くの化学物質を病気の治療に用いました。現在ではこれらの物質のほとんどが、有害物質や毒物のたぐいですが、化学物質を治療薬に取り入れた最初であったことは医療の発展に大きく貢献したことになります。そこでパラケルススのことを「医化学の父」などと呼んだりしています。

パラケルススはさらに、人体には水銀、硫黄、塩の 三大要素が重要であり、体内に塩が沈殿した結果、病気が発生すると考えて、この沈殿した塩を溶かすために、さまざまな鉱物を用いることをすすめたので した。この考え方は、ギリシア、ローマから受け継がれた古典的医学とは大きく異なり、現在の臨床内科医としての姿勢でした。実際彼はすぐれた臨床家であったそうで、多くの著書や講演記録が残されています。

 ちなみに「化学療法」は文字通り化学物質を使った治療法ということですから、現在の化学物質を薬剤として用いた治療法はすべて化学療法ということになります。しかし私たち医療者は「化学療法」という言葉を、抗ガン剤という化学薬品を使ったガン治療の意味で使うことが多いように思います。

 

 今では血管の中を流れている血液が心臓から送り出されてまた心臓へ帰ってくる「血液循環」を知らない人はいないと思います。しかし1628年、ウィリアム・ハーヴェイが血液循環論を確立するまで、世の医療者たちはこのことを知りませんでした。

 医療の歴史(4)でご紹介したローマ時代の医師ガレノスが唱えた血液の流れについての生理学が17世紀になるまで信じ続けられていたのです。ガレノスの考えは、口から食べた食物の栄養分は腸で吸収され、それが肝臓で血液として調整され(つまり肝臓で血液が作られ)血管を通って全身へ運ばれるというものです。そして全身に運ばれた血液は「精気()」となって全身の生命活動に利用される・・・つまりその血液がまた心臓や肝臓へ戻ってくるとは考えていませんでした。しかし16世紀になって、前回ご紹介したヴェサリウスの詳しい解剖学(医療の歴史8)からすると、ガレノスの説はやはり矛盾する点が多いことが徐々に分かってきていました。しかしこれを実証し意見を述べた画期的な報告は、ハーヴェイの血液循環論が登場するまでありませんでした。

 ハーヴェイは1578年、イギリスの裕福な商人の家に生まれました。ケンブリッジの専門学校を卒業した後、その当時、繁栄の絶頂にあったイタリアのパドヴァ大学に入学します。ここで彼は数学や天文学を、地動説を唱えてローマ教会から火あぶりに処せられたガリレオ・ガリレイから学び、科学的な思考を身に着けていきました。またパドヴァ大学は16世紀にはヴェサリウスが解剖学を教えていたところで、ハーヴェイはヴェサリウスの流れをくむ解剖学を直接学んだことになり、このことが後の血液循環論につながっていきます。

vein.jpg 心臓のポンプ作用で送り出された血液は、動脈を通って全身へ運ばれます。そして静脈を通って心臓へ帰ってきます。動脈は心臓から全身へ高い圧力で血液が送りだされます。その圧力を測定したのがご存じの「血圧」です。一方、静脈は動脈に比べて非常に圧が低くなっていて、心臓に帰り着く手前には0になります。このため静脈には血液が逆流することがないように所々に弁がついていますが、このことを証明したのもハーヴェイです。(右の図)しかし彼は、動脈と静脈がどのようにつながっているのかは明確に解らなかったようです。毛細血管という非常に細い網目状の血管が動脈と静脈の間にあるのですが、これを直接確認するのは肉眼では難しく、ハーヴェイの生きた時代からもう少し時間が経って、顕微鏡が発達してから確認されたのでした。

 人体解剖学の研究は16世紀になって盛んになりました。その中心人物が解剖学の歴史上最大のビッグネームであるアンドレアス・ヴェサリウスです。

ヴェサリウスは1514年ベルギーのブリュッセルで代々医師であった家に生まれました。幼少の頃から動物の体の構造に興味を持ち、身の回りにいる動物を勝手に解剖していたそうです(現代では動物愛護法で許されることではありませんが・・・)。

成長してパリ大学医学部に進学したとき解剖学の講義を体験しました。ところが、前回、医療の歴史でも少し紹介したように、当時の解剖学は古代のガレノスが著した解剖学を何の疑いもなく解説するだけのものでした。実習は解剖学教授が直接行うのではなく、実習助手が形式的に内臓を取り出し、学生たちに指し示すだけのものだったそうです。当時、刃物を使って死体を切り開くことは下賤な作業と思われていました。ヴェサリウスはこれにがまんできず、子供のころからの動物解剖の体験を生かして、手際よく解剖してみせました。これが評価され、すぐに解剖学実習の助手に採用されたのです。

 彼はすぐに解剖の名手としての名声を得、23歳の若さでイタリアの名門パドヴァ大学の解剖学教授に就任することになりました。自ら解剖を行って学生たちに講義するとともに、解剖学を探求し、古代からのガレノス解剖の多くの誤りを指摘して行きました。どうもローマ時代のガレノスは猿などの解剖は自ら行っていましたが、人体解剖の経験はあまりなかったのですが、弟子たちや後世の人々がガレノスを解剖学の神様として祭り上げ、その理論が何百年も盲信されていたようです。vesalius.jpg

 1543年、ヴェサリウスは写実的なイタリア絵画を多く取り入れた大著「人体構造論(ファブリカ)」を出版します。(右は今でも解剖学書の序章などで紹介されているファブリカの挿し絵です。)正確な人体構造の知識を得た西洋医学はこの後、飛躍的な発展を遂げていくことになるのです。

 しかし、いつの時代も新しい真実を最初に述べた人は周囲から冷たい視線を浴びせられることが多いのですが、ヴェサリウスも例外ではなく、最後は不遇な生涯を43歳という若さで閉じてしまうことになりました。

 古代ギリシア、ローマ時代の文明発展の時代が過ぎ、その後のおおよそ67世紀のヨーロッパはキリスト教のカトリック教会隆盛の影響を受けて、芸術や文化がすっかり停滞してしまった時代が続きました。暗黒時代などと呼ばれていますが、教会の精神に反するような新しいことを試みることが許されなかったのです。医学の世界も同様で、医療の歴史 (4) で紹介したローマ時代のガレノス医学が神聖で侵すことができない絶対的なものとされていたため、新しい医学研究などは全く行われませんでした。たとえば人体の内部構造についての知識は教会が人体解剖を許さなかったものですから、ガレノスの述べたことを盲目的に信用していく他に道はありませんでした。

 しかし13世紀を過ぎたころからカトリック教会は少しずつ人体解剖を認めるようになりました。この頃の(あるいはこれより以前からという説もありますが)新しい時代を「ルネサンス」と呼ばれているのはご存じの通りです。「ルネサンス」という言葉は復興、再生という意味だそうですが、暗黒時代に別れを告げて、古代ギリシアやローマの活気にあふれた学研精神を取り戻そうとする意識ととらえることができると思います。

leonardo.jpg ルネサンスを代表する最大の芸術家の一人であるレオナルド・ダ・ヴィンチ(14521519)は「ミロのヴィーナス」や「最後の晩餐」など有名な絵画の作者であることはいうまでもありませんが、芸術家だけではなく 工学や医学・生理学の改革者でもありました。真実を自分の眼で確かめてそれを正確に表現しようとしたのです。彼が残した人体解剖図(右の図)は、ただ詳細に描かれただけでなく、それまでの解剖書とは全くことなり、人体の構造を遠近法を取り入れた立体的な図として描写してあります。

 ただ残念なことにレオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図は医学的発展に寄与した部分は多くありませんでした。彼は事実をありのままに表現することに興味があり、詳細な人体構造が、人の身体機能や病気の発生にどのようにかかわってくるのかという点にはあまり興味がなかったようです。

 ルネサンス以後の医学の発展に最大の貢献をした人はダ・ヴィンチより後に活躍したヴェサリウスという人です。このことは次回の医療の歴史で紹介します。


PST2.jpg 「ペスト」は、ペスト菌が原因でおこる病気です。現在の日本では感染症法で最も危険な一類感染症に分類され、感染者を隔離して治療することと定められています。もともとはネズミに流行するものですが、感染したネズミの血を吸ったノミに刺された人に感染が広がります。かつて感染者は皮膚が黒くなり死に至ったことから「黒死病」と呼ばれていました。現在では抗菌剤の投与が有効で、適切に治療を行えば後遺症を残すことなく治癒しますが、抗菌剤がなかった昔は致死性が高く恐れられていました。そもそもペスト菌が原因で流行するということも解らなかったわけですから、多くの人が「ペスト」で命を落としました。14世紀のヨーロッパでは流行を繰り返し、おおよそ2500万人が死亡したことから、全人口の半分近くを失ってしまったのです。ヨーロッパ各地にはこのペスト大流行の記念碑があります。写真はウィーンにある「ペストの柱」です。

 ペスト流行の原因は解らなかったけれど、人は大勢の患者がいる場所から逃れようと考えるのは当然のことです。「デカメロン」はボッカチオが1348年に著した物語集です。この時のペスト大流行から逃れようと男女10人が邸宅にひきこもり、その退屈さをまぎらわすため、毎日10人が10話ずつのおもしろおかしい物語を語り合い、百話ができたという設定になっています。題名の「デカメロン」はギリシア語の10日という意味の言葉に由来するそうで、「十日物語」などとも呼ばれています。ボッカチオはペスト流行という当時の最新ニュースに引っかけて文芸作品「デカメロン」を作り上げましたが、その中で悲惨な流行のようすが今に伝えられているのです。

 ところで、このペスト流行が医学の発展に与えた影響には大きいものがありました。それはペストといった伝染病をどのように予防するか、という防疫法が確立されていったことです。イタリアでは患者の発生を届け出させ、患者の隔離、使用した物品の焼却処分、さらに港の封鎖が始まりました。入港した船の船員の上陸や荷物の陸揚げをすぐにさせず、40日間停泊して発病する人がいないことが確認されたのち初めて上陸が許可されました。現在、空港などにある検疫所で行われている「検疫」は英語でquarantineといいますが、これはラテン語の40という意味の単語からできたもので、14世紀イタリアでの港の封鎖が語源となっています。

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 ローマ時代における医学・医療の偉人ガレノスの死から1世紀後、ヨーロッパはキリスト教の広まりが著明となってきました。それまではギリシア神話に登場する神々が人々を癒す象徴でしたが、紀元300400年頃になるとイエス・キリストが苦しむ人々を癒す神となったのです。なかでも修道院は病気の人に治療をほどこす医療施設になりました。ヨーロッパにおける病院の始まりです。(右の図)貧富の差なくすべての人々を救うというキリスト教の精神はそのまま修道院における医療の精神でした。初めは看護や介護が主体でしたが、次第に修道院の中に独自に造られた薬草園で生産された医薬品を使ったり、手術のような治療も試みられるようになったのです。

 しかし、修道院での医療者の功績は、それまでの医学的知識を後世に伝えていったことです。古い医学文献を収集し、忠実に書き写して保存するという医学図書館のような存在となって行きました。これによりヒポクラテスの精神が現在でも知られ、ガレノス医学が千年以上にわたって実践の医療として伝承されていったのです。さらに彼らは、自分たちの医療を受け継ぐ後輩たちを育成する使命を負っていると考えており、この精神が医学校の始まりにつながって行きます。

 10世紀ごろ、南イタリアの保養地サレルノという場所に医学校ができました。ここでは修道院で収集され整理された古代ギリシアやローマの医学が講義されていました。そしてサレルノ医学校の名声はヨーロッパ中に広がり医学全体を支配するようになります。さらに時代は下って12世紀になるとボローニャ、パリの大学にそれぞれ医学部が作られ、医学教育がさらに拡大していきます。しかしここで講義されていたのは、相変わらずガレノス医学のような古代の医学でした。中世の医学・医療は他の科学領域と同じく古い知識の盲信であり、中世は停滞の時代であったといえます。近代医学が大きく発展するのは、レオナルド・ダ・ヴィンチに代表されるルネッサンス期まで待たなければならなかったのです。

 

 ローマでの医療の特色は、病気がおこった時これを治すより、病気の発生を予防することに重点をおいたことです。つまり健康法や公衆衛生のような考え方が一般に普及していたのでした。具体的には、今でも遺構が残っている上水道・下水道の整備、公共浴場の建設、さらに集中暖房設備や公衆トイレの設置などローマはまさしく健康都市をめざして発展していったと考えられています。

Galenos3.jpg ところでローマ時代の医学・医療を語るとき外すことができない人物がガレノスです。(右はギリシアで発行されたガレノスが描かれた切手です。)16世紀、近世の医学が確立されるまでの千年以上にわたって、彼の理論が医学を支配していました。130年頃、現在のトルコにある古代都市ペルガモンに生まれたガレノスは、ギリシア各地で医学を学び、一度故郷に戻った後、ローマに移りました。彼はローマで名医としての頭角を現し、宮廷の典医にまでのぼりつめたのです。

 前回までにご紹介したヒポクラテスの四つの体液理論などが今に知られているのは、ガレノスが残した多くの著作の中に体系化された理論として紹介されているためだとされています。また解剖学や動物実験などにも力を注ぎました。水分を多く摂取すると尿量が増加すること、豚の脊髄神経を切断すると麻痺がおこること、さらに大脳を傷つけると体の反対側に障害がおこることなど、今では当たり前のことを実験的に発見していったのです。これらのことからガレノスは実験医学の創始者といわれています。

 16世紀になってヴェサリウスという人が「人体構造論」を出版し、現代の解剖学に通じた近代医学の夜明けが訪れるまで、ガレノスの解剖学・生理学が医学の理論を支配していました。今では誰もが知っている血管の中を流れている血液は循環していることさえ、16世紀になるまで医学者の誰もが知りませんでした。ガレノスの名声はある意味で当時の腕利きの医療者というより長年にわたって医学の世界に与えた影響の方が大きかったと言われています。

 ヒポクラテスが自ら医療者としてどうあるべきかを示した「ヒポクラテスの誓い」は20世紀の半ばまで、医療者の道徳律とされていました。

(1) 患者さんの利益を第一にする

(2) 自殺や安楽死に加担しない

(3) 患者さんの身分や貧富の差なく医療をする

(4) 患者さんと職業上の関係を悪用しない

(5) 患者さんの秘密を守る

(6) 自分の師や同業者に礼をつくす

などですが、これらはすべて現代では当然のことばかりです。特に「(5)秘密を守る」については、我が国で一般に「個人の秘密は守られるべきである」ことをしめした「個人情報保護法」が施行されたのが2003年ですから、それより2000年以上前から医療者にとっては当然の義務だとされていたのには興味深いものがあります。

 一方で、ヒポクラテスは「医療において、これからおこる事態や、現在ある状況は何一つ患者本人に明かしてはならない」「素人である患者にはいかなる時も、何事につけても決して決定権を与えてはならない」と述べたとされています。この二つのことは、すでにお気づきのように、現在の考え方とは全く逆です。現在では患者さんが自分の病気のことはすべて知る権利がありますし、これに対してどのように医療をするのかは患者さんと医療者が話し合って決めていくことが当たり前なのはよくご存知の通りです。

この二つのことに代表されるヒポクラテスの考え方を「親権主義」あるいは「家父長主義」(パターナリズム)といいます。つまり親が子を思う気持ちで、子供のことは親にまかせておきなさい、ということと同じだということからこのように呼ばれているのです。現在の医療の在り方とは正反対であることから、ヒポクラテスの考えは過去のもの、とも言われたりします。しかしヒポクラテスが本当に言いたいことは、「医療のことは医療者にまかせておけ」ではなくて、「医療者は常に患者さんから信頼されるように修養をかさねることが大切だ」ということではないかと思います。

 「自分の身を律して常に修養・努力する」そして「愛情を持って医療を行うべし」というヒポクラテス思いは医療者の心の中に生き続けているのです。エーゲ海のコス島のプラタナスの木の下でヒポクラテスは弟子たちに医学を講義したと伝えられています。そのプラタナスは今もコス島に「ヒポクラテスの木」として残されており、さらにその苗木は世界中の医療施設や医療系大学に移植されています。

hippocratesHUHS3.jpg また「ヒポクラテスの誓い」は1948年、ジュネーブで開かれた第二回世界医師会で、医療専門職のあるべき姿として「ジュネーブ宣言」という形でまとめられました。現在でも「医療の倫理」の原点と考えらえれ、国際規定として引用される機会が多くみられるものです。

 

日本でも 「ヒポクラテスの誓い」を記した場所を医療施設や大学などで見かけます。写真は兵庫医療大学のホールの壁に書かれたものです。