医療あれこれ

医療の歴史(124) 中世の十字軍と医療

 古代ローマは11世紀頃には西方領土の西ローマ帝国と東半分の東ローマ帝国に分かれて存在していましたが、このうち東ローマ帝国(ビザンチン帝国)はイスラムに領土を占領され圧迫を受けていました。東の皇帝アレクシオス1世はローマ教皇に救援の兵を送るように依頼したのですが、教皇ウルバヌス2世は聖地エルサレムを奪還する目的で軍隊を編成することにしました。これが十字軍です。いうまでもなくエルサレムはもともとイエス・キリストが張り付けの刑に処せられたのち復活したキリスト教の聖地ですが、イスラム教のムハンマドが創始者に君臨した聖地になっていたのです。つまりキリスト教とイスラム教両者にとって最も重要な聖地だったのです。聖地奪還という大義名分はローマ教皇にとって権力を集中させる絶好のチャンスであると同時に、西ヨーロッパの騎士たちにはそれまでの罪の償いが免除されると告げられ大いに意気が上がっていたのでした。

 1096年に派兵された第一回十字軍は、激戦の末エルサレムの奪還に成功し、十字軍国家が樹立されたのですが(1099年)、イスラムが再び勢力を強めるようになりました。1147年に第二回十字軍が派兵され、その後、諸説がありますが1271年の遠征まで200年間にわたって幾度となく十字軍遠征が繰り返されたにも関わらず、結果的にエルサレム奪還はできませんでした。しかし十字軍の遠征は、アラビアの科学技術が西ヨーロッパにもたらされることになり、東西の文化交流が盛んとなったのです。

 それまでのイスラム各地における医学・医療関係の情勢をみると、ギリシア時代のヒポクラテス(医療の歴史2)、ローマ時代のガレノス(医療の歴史4)によってまとめ上げられてきた古来の医学が受け継がれ、アラビア医学と融合し発展していました。一方、本来の地である西ヨーロッパでは、ゲルマン民族の大移動などにより西ローマ帝国は分断されるとともに、キリスト教の勢力増大により学問、技術の目新しい進歩はありませんでした。いわゆる中世の暗黒時代です。そこに東方からもたらされた文化、技術などは後に沸き起こるルネサンスの基盤になっていったのでした。アラビア語で伝えられていた医学書は新しくラテン語に翻訳され広まっていきました。また南イタリアのサレルノでは初めての医学校が作られ、付属の病院では傷病を負った十字軍兵士の治療にもあたりました。

 一方、十字軍遠征による負の遺産として注目すべきことは、東からもたらされたペストという感染症のまん延です。十字軍は艦船で地中海を渡り遠征したことが多かったのですが、西側ヨーロッパへ帰港したにはペスト菌に感染したクマネズミが多数まぎれ込んでおり、ノミを介してヨーロッパ中にペストが拡散されていったのでした。(321日付本項参照