医療あれこれ

2015年1月アーカイブ

Sugawara_Michizane2.jpg 菅原道真(845903)は儒学者の家に生まれ、そのころの朝廷で政権の中枢を形成していた貴族ではありませんでした。平安時代中期、天皇との結びつきから朝廷での地位を得ていく条件として、文人で教養が高く、官吏としての政務能力が高いことが条件でした。道真は儒教的思想を背景とした政治理念を持ち、優れた実務能力があったことから、宇多天皇に重用され、右大臣にまで登りつめました。この時、これに次ぐ左大臣の地位にあったのが藤原時平(871909)で、新しく時事情勢にあわせた行政をするべきとの政治理念を持っていたのですが、従来の律令政治を踏襲しようとする道真と政治的対立があったようです。成り上がって右大臣になった道真に対する他の貴族たちの妬みがあったところへ、後ろ盾だった宇多天皇が醍醐天皇に譲位し上皇になられたあと、時平らの讒言(さんげん)などもあり、道真の立場は破局を迎えます。九州の大宰府で太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷された道真は、京に残した妻子を想いながら悲運の中59歳で亡くなってしまいました。

 道真の死後、京ではさまざまな事件が発生し、それらが道真の怨霊のためであると全ての都人が盲信するようになりました。病気を始めとしてすべての不祥事は怨霊、物の怪(もののけ)の仕業であるという思想の典型的な例です。醍醐天皇は疱瘡(天然痘)に罹患し崩御され、政敵だった藤原時平も病名は明らかではありませんが、短い闘病ののちわずか39歳で亡くなりました。また下の図にあるように、御所の清涼殿に落雷が起こり、大納言藤原清貫(きよつら)らが即死したのです。

 この怨霊を鎮めるため、京で道真は北野天満宮に祀られました。妻子と別れ大宰府へ出発するとき、庭の梅の木に寄せて詠んだ「東風ふかば にほいおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」という有名な歌から、天神様と梅が結びついています。

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 厚生労働省が新年早々に発表した「平成26(2014)人口動態統計」によると、昨年(2014)の出生数の推計は1001千人と戦後(昭和22年以降)最少であり、逆に死亡数の推計は1269千人で最多であったことが分かりました。出生数は2013年より29千人少なく、死亡数は1千人増えていたそうです。その結果、昨年(2014)の死亡数と出生数から算出される人口の自然増減数は、-268千人となりました。

shiinn.jpg 一方、主な死因と死亡数の推計は、ガンなどの悪性新生物が37万人、心筋梗塞などの心疾患が196千人、肺炎が118千人、脳血管疾患(脳卒中など)113千人となり、以前ご紹介したように、肺炎が第3位を維持する一方、悪性新生物による死亡は最多となりました。

 これらの発表とは別に、201411月に学術雑誌Lancetの「健康と加齢」特集に1980年から2011年までの間で平均余命、つまり現在60歳の人が平均であと何年生存するか、という数値がどのように変化したかという記事が公表されていました。それによると、高所得国での60歳平均余命は男性で17年間に17.2年、女性では26.6年延びたとされています。世界で最も延長した国は男性ではニュージーランドで、オーストラリア、ルクセンブルグ、英国と続き、日本は53ヶ国中22位でした。これに対して女性では日本が世界最大の平均余命延長国だったそうです。この要因として、心臓や血管の病気、糖尿病による死亡数の減少、さらに高血圧予防、保健指導の拡充や効率化がうまく機能したと考えられています。高所得国では、塩分制限や禁煙、ワクチン接種などの予防対策により回避可能な疾患が原因で死亡する場合が減少してきた結果と考えられます。2011年時点で女性の場合、この回避可能な死亡率が世界で最も低かったのは日本で、第2位のフランスを大きく引き離していたそうです。

 ただし生存者が必ずしも健康で充実した生活を享受できているとは限りません。慢性疾患の予防、管理の強化が求められているところで、そのためにも社会の医療システムが人口高齢化に伴う諸問題に有効な対策を立てていくことが重要です。

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 平安時代は桓武天皇が平安京(京都)に都を遷した794年から、源頼朝が鎌倉幕府を成立させる1185年までの約390年間をさしますが、前代(奈良時代)から引き継がれた律令制度に基づく社会であった前期、荘園制が生まれ律令制が崩壊していった中期、および武士が台頭して鎌倉時代に引き継がれていく後期に分けて考えるのが大方の見方です。平安前期では、医療制度については律令制度で生まれた典薬寮(医療の歴史42)があり、これに基づいて設置された施薬院が平安時代後期にかけて大きな力を持つようになりました。

 典薬寮は奈良時代に比べて相当大きな規模となり、地方から送られてくる薬物の管理、薬園や乳牛の牧場の管理、医学教育および医師の任免、朝廷関係者や畿内住民の診療まで、すべての中央医療関係を管轄していました。この時代に医学を学んでいた医生の正確な数字は明らかではありませんが、数十人の規模であったと考えられています。定められた教育課程が修了するとかなり厳格な資格試験が実施されましたが、合格しない場合も多く、これらの者には当然のこととして医業をおこなうことを禁止していました。しかし次第に医師不足が問題となってきたため、医師の子孫はたとえその本人が医学教育を受けていなくても無検定で医師になれるという無謀ともいえる制度にかわっていったようです。

 施薬院については、奈良時代に光明皇后が興福寺に皇后宮職として設置したものが最初でした(医療の歴史49)。平安時代になるとこれが皇后宮職から独立した存在となり、その規模を拡大させていき、もともと悲田院の管轄であった貧困の住民や孤児の救済までを取り仕切っていました。京の町で飢病者がいると米や塩をふるまうなどの事業もおこなっていたようです。しかし京では一方でかなり非道なことも行われていたようで、奴婢は死が近づくと雇い主は道端に捨てられるなどのことがおこなわれ、道端や河原には白骨がごろごろころがっていたといいます。それはともかくとして、時代が下って荘園が栄え地方に朝廷の力が及ばなくなると施薬院の勢力も衰えてきました。また地方で施薬という大義名分のもと特権を得て横暴な活動が目立つようになったという記録も残されています。


 今から2400年前ギリシアの医師ヒポクラテスは、それまでの呪術的な医療ではなく科学的に人の体を観察して現代に通じる医療の体型の基を作り、「医聖」「医学の父」と呼ばれています(医療の歴史2参照)。彼は正常な認知能力と旺盛な食欲のある人の死亡率は低い、つまり精神的に正常で食欲があると長生きできるという仮説を立てていました。この真偽について現代の臨床疫学的手法を用いて調査するという考えもおよばないような研究が、カナダのマニトバ大学でおこなわれその結果をまとめた論文が2014年末に発表されました。

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 研究の対象はマニトバ地域の65歳以上の住民1751人で、うつ病や精神状態を調査するアンケートを用い、食欲の有無や精神状態の安定性を評価した後、1991年から56年間、死亡率を調べていったのです。その結果、食欲が正常で精神的に正常な人に比べて、食欲、精神機能のいずれかが劣る人は調査終了時の生存率が低く、食欲と精神機能の両方に問題のある人は最も生存率の減少が著明であることが明らかとなりました。上の図は、カプラン・マイヤー生存曲線という時間経過にともなう生存率の変化を示したものです(引用論文より改変)。食欲と精神機能のいずれかあるいは両方に問題がある人に比べて、両方とも問題がない人の方が明らかに調査終了時の生存率が高いことがわかります。

 このような現代の疫学調査方法が知られていなかった紀元前のギリシアで人の生存について予測したヒポクラテスはまさに「医学の父」と呼ばれるにふさわしい偉大な人物であったことが改めて認識されました。

引用論文:BMJ 2014;349:g7390 doi: 10.1136/bmj.g7390 

(Published 15 December 2014)