医療あれこれ

2014年12月アーカイブ

 平安時代には、身分の上下にかかわらず人々は病気の原因は怨霊の仕わざと信じられていました。当時、急病人がでるとそれに対応するのは怨霊、物怪(もののけ)を退治する加持祈祷が最も重要な医療行為だったのです。枕草子には急病人があるので験者(げんざ)を探し回り、やっとのことで加持祈祷により治癒した様子が記されています。また宇津保物語などには、験者による加持祈祷で物怪の調伏させたのち、医師による後治療がおこなわれたことが描かれています。つまり当時の人々にとって病気の治療には、薬の内服より験者による加持祈祷の方がはるかに大切であったことがうかがえます。

 一方、都で身分の高い人たちは、病気になると呪術や祭祀をおこなう陰陽師(おんみょうじ)に疫神を退治させるようになりました。陰陽師は、養老律令で中務省に属する官職の1つで、本来は陰陽五行に基づいた陰陽道により占術を専門とする職でしたが、怨霊や疫神の退治をもおこなう職業となってきたのです。前回、医療の歴史(53)でふれたように藤原氏の陰謀で九州の太宰府に左遷された菅原道真のように政争に敗れて失脚したり、暗殺された人の怨霊が疫病を引き起こすと信じられ、これに対応することが必要だったのです。

  陰陽師として一躍有名になったのが、小説、映画、テレビドラマに登場する安倍晴明です。安倍晴明は921年、摂津国阿倍野(現在の大阪市阿倍野区)に生まれたとされ、陰陽師賀茂忠行に陰陽道を学び官職に就きました。50歳ごろから頭角をあらわし、最終的には中務省の陰陽寮長官である陰陽頭よりも上の官位であったといわれます。下の写真は泣不動縁起にある疫病神退治をする安倍晴明です。Abe_no_seimei2.jpg

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 平城京が都であった奈良時代、大仏を建立した聖武天皇の頃はよかったのですが、後期になると僧道鏡が天皇の位に就こうとするなど(医療の歴史51)、それまでの仏教政治に歪が目立つようになりました。これを一掃するねらいも含めて、桓武天皇は都を移すことにしたのです。初めは山背国(やましろのくに)長岡の長岡京(現在の京都府向日市あたり)に遷都しましたが、これには平城京の貴族らの中にも強硬に反対する勢力もあり、桓武天皇の腹心だった藤原種継が暗殺されるなどの事件がおこり、最終的に794年、山背国葛野(かどの)宇陀(うだ)、現在の京都市に再遷都されました。平和で安心できる世の中であることへの願いを込めて平安京と名付けられたのです。以後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くまでの約400年間を平安時代と呼ぶのはご存知の通りです。

 平安時代の全般的な医療の特徴は、それまでの遣唐使が廃止され、大陸から新しい医療が直接もたらされることがない分、わが国独自の医療が築き上げられていきます。その典型が医療の歴史46でご紹介したように、医書が編纂されたことです。なかでも丹波康頼による医心方は、長年朝廷で保管されていたこともあり、全てが現存している貴重な資料です。しかしこのような一流の医学は都に在住するごく限られた身分の高い人にしか施されませんでした。庶民のほとんどは古代からの民間医療や、僧らによる加持祈祷に頼ったものだったのです。特に、平安時代には非業の死を遂げた人の恨みが現世に祟をなす怨霊の存在が信じ込まれており、人の病、とくに疫病の流行はすべて怨霊の仕業であると考えられていました。平安遷都にあたっての争いから反対派により幽閉され自害した桓武天皇の弟で皇太子だった早良親王(さわらしんのう)を祀ったのが御霊会の始まりです。平安時代には御霊会が盛んにおこなわれるようになり怨霊を鎮めるため、非業の死を遂げた人を神として祀るようになります。その代表的なのが、藤原氏の陰謀の犠牲となった菅原道真が天神として祀られた北野神社ですが、このことは改めて述べたいと思います。

 兵庫医科大学整形外科(吉矢晋一教授)では、激しいスポーツなどが原因でおこる膝関節軟骨損傷の人を対象に、本人から採取した骨髄液を培養して膝関節の損傷部に注入し、軟骨を再生させる新しい再生医療の臨床研究を広島大学などとの共同としてスタートさせました。対象は20~70歳で、この臨床研究への参加希望者は兵庫医科大病院の受診が必要です。

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 軟骨は、関節の骨の表面にあって関節をスムーズに動かす役割がありますが(右図の青色の部分)、長年の体の動きなどで次第に損傷してくると、関節で骨と骨が直接接することになり、運動により痛みが生じ、動きが制限されてきます。さらに進行すれば「変形性膝関節症」という明らかな整形外科的疾患の原因になります。関節の軟骨には血管がないため血液成分中の物質で傷害が自然に修復されていくことはありません。これまでの治療法としては、損傷部の周辺を刺激して組織再生を促す治療法「骨髄刺激療法」などがありましたが、十分な回復が困難でした。そこで新たな再生医療が必要というわけです。

 もともと赤血球や白血球を作っている骨の中心部である骨髄には、赤血球や白血球の元になる細胞である幹細胞があります。その中で、血液細胞ではない骨や軟骨になっていく「間葉系幹細胞」も存在するのですが、今回の臨床研究では、骨盤の一部である腸骨から骨髄液を採取して、このうち軟骨に分化していく「間葉系幹細胞」を分離し大阪大で培養、細胞を増殖させて移植するというものです。再生医療というと、京都大学山中教授のiPS細胞が思い浮かびますが、iPS細胞は今回の幹細胞よりもっと未熟で、皮膚から採取した細胞を、どのような組織にも成長していく多能性をもった幹細胞として作り出し増殖させて医療に用いるものです。つまり「間葉系幹細胞」はiPS細胞より少し軟骨の方向に成長した幹細胞ということができると思います。

 この臨床研究は、昨年5月に厚生労働省の承認を受けていますが、実施期間は5年間で、40人に細胞移植、およびこれまでの方法である骨髄刺激法の両方をおこない、別の40人に骨髄刺激法だけを実施し、これまでの方法に加えて新しい細胞移植を実施した場合の効果の差を確かめることになっています。

 スマートフォンなどの画面はブルーライトを発することから、これが原因で難治性の頭痛が発生することが知られています。ブルーライトは波長380495nmの青色光で、スマートフォンやゲーム機、パソコン、さらに液晶テレビ画面が発する光に含まれています。近年、日常生活でこれらの画面を見る時間が増えており、特に若い人たちにおける難治性の思春期慢性連日性頭痛の原因になると考えられています。11月に下関で開催された日本頭痛学会総会で、これらブルーライトを発する機器の夜間での使用を制限すると頭痛の症状が改善することが報告されました。

 これらのことは小児科領域において、頭痛だけでなく、睡眠障害、昼夜逆転、不登校などとの関連も指摘されています。そこでこれらの訴えをもつ慢性連日性頭痛の症例に対して、ブルーライト制限を中心とした約1ヶ月の入院治療をおこなったところ、症状の著明な改善がみられ、登校も可能になったということです。

 小児思春期頭痛外来に通院中の1219歳の30人にアンケートすると、スマートフォンやゲーム機、パソコンの所持率は100%だったそうです。その使用時間は1日平均5.6時間で最も長い場合15時間に及ぶと回答しています。さらに夜8時以降の使用がほぼ毎日という結果が得られたそうです。glasses.jpgそこでスマートフォンやパソコンなどの使用は13時間以内とし、夜8時以降はなるべく使用しないことが提唱されました。さらにブルーライトカット眼鏡(右の写真)を装着するなどの基準づくりといった対策が必要だとのことです。

 医療の歴史(51)でご紹介したように奈良時代から医療は僧侶がおこなうことが中心でした。その中で、医療者としてはあまり知られていませんが、有名な看病僧の一人に唐から来日した鑑真がいます。

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鑑真は688年、唐の長江河口近くの揚州の人で、14歳で出家し長安・洛陽で仏教を学び、唐国内で戒律を教え広めて名声を得ていました。そのころ仏教の普及のため本格的な伝戒師を求めていた日本から僧栄叡(ようえい)・普照らが唐に渡り鑑真に誰か日本で戒律を広める人物を紹介してくれるよう懇願したところ、742年、鑑真自身が決意し渡日することになりました。しかし難破などで5回も渡海に失敗し、そのうちに自らは眼病を患い失明してしまいます。最終的に753年、遣唐使の帰国船に乗ってついに日本に渡ることに成功し、翌年には平城京に入り、東大寺に迎えられました。そして大仏殿前に戒壇を設けて、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇を始めとして、多くの僧侶が鑑真から受戒したのです。758年に大和上(だいわじょう)の号を授けられ、のち東大寺から移った唐招提寺に現在もまつられています。

 鑑真は戒律だけでなく医術についても詳しい知識を持っていました。来日にあたって多くの珍しい薬物を持参し医術の普及にも大きな貢献をしたのです。医療の歴史(50) でご紹介した正倉院薬物の中に遠くアラブ産のものも含めて多くの外国産の薬物がありますが、その中に、鑑真が来日するときに持参したであろうと考えられているものがあるそうです。何度も渡海に失敗して盲目となった鑑真は、匂いだけで薬物を鑑定することができたといわれていますが、それは実物を知らなかった日本の医療者にとって大変重要な情報でした。

 聖武天皇の母、藤原宮子の病が悪化したとき鑑真が呼ばれて治療し、その時に使用された医薬が奏功したことによって鑑真は僧としての高い位が授けられたのです。また聖武太上天皇が重体に陥った時、看病僧126名が朝廷に召集されましたが、この中にもちろん鑑真も含まれています。治療の甲斐もなく756年、天皇は崩御されましたが、この僧たちの租税負担が免除されることになったそうです。