医療あれこれ

2014年11月アーカイブ

肺炎の予防接種

 以前にご紹介したように日本人の死因は第1位がガンなどの悪性新生物、第2位が心疾患、そして、これまで脳血管障害が第3位でしたが、2年前より肺炎となっています。そしてその肺炎の原因菌として最も頻度が高いのは肺炎球菌です。(http://www.suehiro-iin.com/arekore/etc-disease/post_17.html)

 Streptococcus_pneumoniae.jpg肺炎球菌は1881年、フランスの化学者ルイ・パスツールによって単離されました(左の写真)。肺炎球菌は肺炎を引き起こすのはもちろんのこと、中枢神経の致死的感染症である髄膜炎の原因菌ともなります。幼小児や高齢者は肺炎球菌感染症が重症化してしまうことがあるので予防が大切です。

 2014年の10月から、高齢者に対して肺炎球菌のワクチンであるニューモバックスNP23価肺炎球菌莢膜ポリサッカライドワクチン)の定期接種が可能となり公費助成が行われることになりました。このワクチンは93種類ある肺炎球菌の血清型のうち23種類の血清型に効果があります。また、この23種類の血清型は成人の重症の肺炎球菌感染症を引き起こす原因菌の多くを占めることから、80%以上に予防効果があるとされています。ただ有効である期間は5年間であることや、連続して接種するといろいろな副作用が発現しやすくなることから、現在のところ65歳で1回接種し、2018年度までの5年間は70歳、75歳と5歳きざみで接種することになっています。

 一方、小児の肺炎は、肺炎球菌のような一般細菌より、マイコプラズマという別の病原体であることが多く、細菌性肺炎としては、インフルエンザ菌が多いとされていますので事情は異なります。

 なお念のため説明しますと、インフルエンザ菌とは、インフルエンザを引き起こす菌ではありません。インフルエンザの病原体はインフルエンザウイルスであり、インフルエンザ菌の感染症ではありません。一般にウイルスは細菌の10分の1以下のサイズであり細菌とウイルスは全くことなるものです。ではなぜインフルエンザを引き起こすものではないのに、インフルエンザ菌というややこしい名前がついているのかというと、昔、顕微鏡でウイルスが観察できなかった時代にインフルエンザという病気の人は何が原因で発病するのか解りませんでした。ある人が、インフルエンザを発症している人の咽頭から新しい細菌を発見し、それがインフルエンザという病気の原因菌だと考えたことからインフルエンザ菌という名前がつけられたのです。しかし、その菌はインフルエンザの原因ではなくインフルエンザの人にたまたま細菌の混合感染があってその菌が存在したのではないかと考えます。

 インフルエンザ菌のうちインフルエンザ菌b型(Hib:ヒブ)は幼小児に肺炎のほか重症の髄膜炎を引き起こすことから、2歳未満の乳幼児にヒブの予防接種が推奨されています。また肺炎球菌のワクチンは成人とは異なり13の血清型に有効な混合ワクチンが認可されています。

 いずれにしろワクチンで肺炎の発症予防をすることは重要で、成人のワクチン接種は当院でも実施しておりますので、接種を受けて下さい。

 律令制度で医療に関する法律である医疾令が出され、中央の医療を統括する典薬寮がありました。ここでは以前にご紹介したように医師などの医療職を養成する制度が確立していました。しかし、奈良時代の記録では、名医とされる人のほとんどが僧侶で、特に天皇が疾病に罹患した時など高貴な人の医療にたずさわったのは僧侶で、宮廷に看病僧として仕えていました。ここでいう看病とは、現代のように病者の身の回りの世話をするという意味ではなく、薬石による病気の治療はもちろん病気治癒を祈る祈祷など、当時の全ての医療をおこないました。聖武天皇の病気に対して医療にあたった看病僧は126名に及んだそうです。

 中にはその医療が成功することにより高い地位を得た場合が多くみられました。その代表的な人物が僧道鏡です。道鏡は、河内国、弓削連(ゆげむらじ)氏出身で、弓削道鏡とも呼ばれています。看病や湯薬の法に詳しく、宮中に看病禅師として仕えていました。聖武天皇の娘である孝謙天皇が退位し孝謙太上天皇となった後、病気にかかり召し出された道鏡は彼女の看病に成果をあげてその寵愛をうけるようになったのです。その時の天皇は、藤原四兄弟の長男である藤原武智麻呂の子、藤原仲麻呂(706764)によって擁立された淳仁天皇ですが、藤原仲麻呂は淳仁天皇から恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜り、破格の待遇を得て太政大臣に昇りつめ権力を掌握していました。そんな折、孝謙太上天皇の寵愛をうけている道鏡との対立が深まり、恵美押勝はその地位を保全しようと764年に兵をあげました。しかし孝謙太上天皇側の迅速な対応により押勝は殺害され、淳仁天皇は退位する結果となってしまったのが恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)です。

 その後、孝謙太上天皇は再び即位し称徳天皇となりますが、道鏡は天皇の信任も厚く、太政大臣禅師、さらに法王となって天皇に準ずる待遇を受け仏教政治に腕をふるいます。そして称徳天皇の意向を受けてついに道鏡を皇位につけようとする事件までおこったのです。これに対してはさすがに反対派の動きも鋭く、和気清麻呂らの道鏡即位反対運動により頓挫します。770年、称徳天皇が死去すると、天皇の親任以外に政治的基盤のなかった道鏡の立場は暗転し、下野(しもつけ)薬師寺の別当として追放され772年、同地で死去したとされています。

doukyouzuka2.jpg

 改めて言うまでもありませんが、糖尿病はそれ自体の自覚症状が問題というより、糖尿病合併症が恐ろしい病気です。三大合併症といわれる、糖尿病性網膜症(目の奥の網膜が障害されて眼が見えなくなる)、糖尿病性腎症(腎機能が障害されて最終的に人工透析が必要になる)、および糖尿病性神経障害(手足の感覚がなくなってしまう)があります。しかしこれより恐ろしいのは、糖尿病性大血管障害と言われるもので、心筋梗塞や脳梗塞、あるいは足の動脈などがつまってしまう閉塞性動脈硬化症などは、生命の危機に陥ったり、足を切断しなくてはならなくなったりします。

 以前からこの項でご紹介していますが、糖尿病の患者数は増加しています。日本において糖尿病患者数は約1000万人弱で、糖尿病になる可能性が否定できない糖尿病予備群も1000万人を越えています。全世界で見ると、糖尿病患者数は25000万人といわれ、全成人の約56%となります。年間380万人以上が糖尿病合併症などが原因で死亡しており、10秒に1人が糖尿病関連疾患で命を奪われている計算となります。

 国連では2006年、国際糖尿病連合(IDF)ならびに世界保健機関(WHO)が定めていた1114日を「世界糖尿病デー」として指定し、世界各地で糖尿病の予防、治療、療養を喚起する啓発運動を推進することにしました。キャッチフレーズは「糖尿病との闘いのため団結」で、国連や空を表す「ブルー」と、団結を表す「輪」を使用したシンボルマークを採用し、糖尿病抑制に向けたキャンペーンを推進しています。日本各地でも、シンボルカラーのブルーで建造物などをライトアップされました。

 Banting.jpgところで、この11月14日はインスリンを発見したフレデリック・バンティング(1891~1941、右の写真)の生まれた日です。インスリン発見の経緯については以前「医療の歴史(26)」でご紹介していますので、次のアドレスをクリックしてご覧下さい。http://www.suehiro-iin.com/arekore/history/26.html



 奈良東大寺を建立した聖武天皇は、それまでも病気がちでしたが756年、その病状は思わしくなく崩御されました。忌明けの四十九日に、遺詔により生前に愛用されていた品々など600点が光明皇后にshousouin.jpgよって東大寺に奉納されました。それが校倉造りで有名な正倉院の御物となって今日に伝わっていますが、服飾、調度品、楽器、武具などがあり、唐ばかりでなく、遠くシルクロードを経た西アジアや南アジア渡来の品々が含まれています。御物それぞれの由来が明確にされており、管理が厳重で保存状態がよいことから、校倉造りという建築物そのものと共に、国際的な美術品として知られています。

 また正倉院には60種の薬物が保存されているのですが、その目録である「種々薬帳」が残されています。桂心、甘草、人参、大黄など今日でも漢方薬としてよく用いられる薬物を含めて60種の薬品名と、その下にそれぞれの分量が記載されてあるそうです。薬帳の最後に、「献納した薬物は盧舎那仏(るしゃなぶつ:大仏)を供養するためのものであり、これを使った者は万病がことごとく治り、寿命を全うすることを願う」という意味のことが記されているといいます。つまり奉納された薬物は、他の御物とは異なり施薬を目的として大仏の供養のためのものでした。またこれら薬物の一部は、光明皇后の施薬院で使用するために随時、出庫されたことが記録に残されています。しかし60種の薬物のうち、実際に施薬院へ出庫されたものは、上述の桂心、甘草、人参、大黄の4種類に限られていました。この4種類の薬物は当時から一般に最もよく使用されていたことがうかがえます。

 現代になって、昭和23年から24年と平成6年から7年の2回にわたって御物の調査が行われました。その結果、種々薬帳に記載される60種の薬物のうち、39種が現存していることが判ったそうです。さらに科学的検証によりこれらの薬物のほとんどが外国産であることが明らかとなりました。多くの美術・工芸品としての御物とともに、これらの薬物は当時、わが国では予想以上に世界的交流が広かったことを示していると考えられます。