医療の歴史(134)明治以降の結核

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医療の歴史(134)明治以降の結核

 明治時代は日本において近代化がおこり結核患者も重症化した結果死亡者は増加する要因となりました。細井和喜蔵の作品「女工哀史」(1925年)に見られるように、富国強兵の政策の下、紡績工場における過酷な労働は結核まん延を引き起こしてきたのです。

そして結核は大正~戦前の昭和にかけて国民病といわれていました。グラフは1989年から2019年における年次別死亡原因の推移ですが、明治から第二次大戦終戦までは日本人の三大死因は肺炎、胃腸炎とともに結核がありました。有効な治療が知られていなかった時代の結核感染の恐ろしさがうかがい知れます。

 文学や芸術関係の著名人のうち若年で死亡した人の死因はほとんどが結核でした。「たけくらべ」で知られる作家の樋口一葉は1896年に24歳で、「一握の砂」の石川啄木は1912年に26歳で、俳人の正岡子規は1902年に34歳で死亡しています。また「荒城の月」などの作曲家滝廉太郎は1903年に23歳で死亡していますが、いずれも死因は結核だったとされています。これらのうち正岡子規は享年が一人30歳代ですが、初めて喀血を起こしたのが198820歳の時で、長年結核の症状で苦しみました。最後には結核菌が腰椎をおかす脊椎カリエスとなり歩行はおろか座位になることもできず寝たきりのまま死亡したのです。

 初めての有効な結核治療薬としてストレプトマイシンが開発されたのは1944年のことでした。それまでは有効な治療薬はなく、医療者も患者に対して結核という病名を告げることは少なかったようで、「肺浸潤」などとあいまいな病名で説明していました。そして空気の澄んだ場所に作られた療養施設(長期療養施設をサナトリウムといいます)で安静と栄養の補給をおこなうことが通常の対応だったのです。1889年に兵庫県の須磨浦に初めての結核療養所が民間の運営で開設されました。また1926年に開設された富士見高原療養所(高原サナトリウム)は著名人の結核患者がよく入院しましたが入院費用は高額で、大卒銀行員の初任給が70円だった時代に特別室は一日20円だったといいます。これに対して公立の療養所も作られましたが、ほとんどの入院患者は重症で医療者に見放された人たちが収容される隔離場所であったそうです。

 戦後ストレプトマイシンをはじめとした有効な抗結核薬が使用可能となり、それまで日本人の死亡原因第一位であった結核による死亡数は激減することとなりました。ただしグラフが示すのは死亡原因の推移であり、現在でも結核発病がほぼゼロになっているわけではありません。むしろ現状は一時に比べ結核の発病数は増加傾向にあり、結核は一度減少した病気が再び増加するという再興感染症といわれています。