医療あれこれ

医療の歴史(番外編) 末廣医院の歴史

 末廣医院は大正1211月に現在の地、千里山に開業しました。2年前の大正10年に北大阪電鉄(現在の阪急千里線)が千里山まで開通し、千里山住宅が100戸完成し最初の14戸入居があったその年で、初代院長の末廣榮和(しげかず)が千里山住宅住民の医療を担う目的で入居しました。

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 私たちの祖父、末廣榮和は三島郡新田村大字上新田(現在の豊中市上新田)で村長だった小寺家の次男として明治27年に生まれました。大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)在学中の大正9年、大阪府西成郡神津村大字三津屋で末廣内科歯科医院を開業していた末廣三治郎の四女春枝と養子縁組入籍し大学卒業後、千里山に入居したのです。開院当時は、三津屋の分院であったことから、1階で内科を、2階で歯科を診療していたそうです。戦前は往診に自家用車を用いており、榮和自身は運転しないので、運転手が住み込みで雇用されていました。昭和15年吹田市制と同時に発足した吹田市医師会に参画し、戦後の昭和22年~25年、26年~29年と2度にわたって医師会長を務めています。当時は医師会の会議が千里山の自宅座敷で行われたこともあったと聞いています。

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 2代目院長の末廣 勵(すすむ)は、末廣家の次男として大正131219日に誕生しました。昭和22年、大阪大学医学部を卒業後、病理学第二講座の大学院に進学し医学博士取得後、昭和27年~31年、和歌山県立医科大学の病理学講座へ講師、助教授として出向しています。その後、大阪大学第一内科講座の医員を経て、昭和32年から大阪警察病院に医員として赴任。昭和35年から内科部長を拝命していました。榮和が高齢になったこともあり昭和444月から末廣医院を継承しました。最初は開業にあまり乗り気ではなかったようですが、午前診前の早朝に上部消化管造影を一人でおこなったり、トレッドミル心電図を早くから導入するなど、新しい医療を嬉々として実践していたのを覚えています。

 その勵も高齢となり、また医院の建物は一度改装がおこなわれただけの大正時代の建売住宅が基本骨格でしたから、阪神淡路大震災で周囲の家屋は外見上何の破損もないのに末廣医院だけは屋根が損傷をうけビニールシートが被っている状態で、老朽化のため改装することになりました。これを機に本来なら長男の末廣 謙が継承するところでしたが、本務先の大学で教授就任が決まっていたこともあって、平成18年、西宮の上ヶ原病院で副院長だった末廣美津子が3代目院長に就任し現在に至ります。

 祖父の開業から数えて今年で93年目を迎えました。あと7年で開業100周年となるわけですが、それに留まらず先々も長男か長女のいずれかが(長女はまだ医学部在学中ですが)医院を継承して地域医療に貢献して行ってくれればと願っております。