医療あれこれ

医療の歴史(99) 野口英世

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 多くの伝記本で有名な野口英世は1876(明治9)福島県で今の猪苗代町に生まれました。1歳の時囲炉裏に転落して左手に大火傷を負い指が癒着してしまいました。これを会津若松で開業していた米国帰りの医師・渡部鼎の下で左手の手術を受け、不自由ながらも左手の指が使えるようになったことが医学を志すきっかけになったといいます。しかし家計の事情で医学校(大学医学部)を卒業することができず、ほとんど独学で医学と語学を習得して医術開業試験に合格し医師となりました。

北里柴三郎の伝染病研究所に入職し細菌学の研究を始めましたが、研究所の周囲は大学出身のエリート達で、これに嫌気がさして強引にアメリカに渡り1911年に性感染症である梅毒の病原体スペロヘータの純粋培養に成功し国際的な名声を得ました。その後、黄熱病という高熱と黄疸を主症状とするウイルス性出血熱を研究しますが、その中アフリカのアクラ(現ガーナの首都)において1928(昭和3)、自らが黄熱病に感染して死去してしまいました。黄熱病はネッタイシマ蚊によって媒介される黄熱ウイルスが原因で発症しますが、細菌学者である野口はこれを細菌感染症と想定していたのではないかと思われます。ウイルスは細菌よりはるかにサイズが小さく、当時の光学顕微鏡でウイルス自体を観察することは難しいのです。これと医学史上同様のことがインフルエンザの病原体についてもありました。冬季に高熱をだすインフルエンザという疾患は古来より存在したがその病原体は永らく不明でしたが、インフルエンザ発症者の咽頭から新種の細菌が発見され、これがインフルエンザの病原体だとして「インフルエンザ菌」と命名されました。しかし実際はインフルエンザはインフルエンザ・ウイルスが病原体であり菌はたまたまインフルエンザ発症者に混合感染していたものが分離されただけです。それはともかく苦労人で世のため研究を続け、多くの業績を論文として発表した野口英世は、何度もノーベル賞の候補になったのですが、自身が死亡してしまったこともあり受賞することはありませんでした。