医療あれこれ

医療の歴史(97) 北里柴三郎~その1

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 北里柴三郎は肥後(熊本県)北里村で代々庄屋をつとめる家に生まれました。18歳で熊本医学校(現在の熊本大学医学部)に入学しオランダ人医師マンスフェルトから医学の指導を受け、東京に出て東京医学校(東大医学部)に再入学しました。在学中、指導教授の論文に口を出すなど大学側と関係が良くなかったため何度も留年し8年もかかって卒業したそうです。在学中に「医学の目指すものは病気の予防である」との信念を抱き、大学を卒業すると少しは良い給与が得られるはずの病院勤務ではなく内務省衛生局に就職したのです。

 1886年から6年間、ドイツに留学し病原微生物学研究の第一人者であったローベルト・コッホに師事して研究に励み、コッホの指示で破傷風菌の純培養に取り組みました。破傷風は土壌中に存在する破傷風菌が傷口などから体内に侵入して毒素を作り、それにより神経が犯され命を落とす病気です。当時、病原体の破傷風菌を培養する技術は開発されていませんでした。実験皿の培養ゼラチンの表面に菌苗を添加して培養しても他の雑菌が混入して破傷風菌の純培養はできなかったのです。しかし菌苗をゼラチンの奥深くに添付すると破傷風菌のみが培養されることを発見しました。つまり破傷風菌は空気にさらされない方がよく生育する菌(嫌気性菌)であることを発見したのです。さらにその毒素に対する免疫抗体を発見して、それを応用した血清療法を確立しました。またこの血清療法はやはり毒素産生菌であるジフテリアにも応用することができることを、北里と共にコッホの研究所にいたエミール・ベーリングとの共同研究で開発しました。なおベーリングはこのジフテリア血清療法の発見で第一回のノーベル生理学・医学賞を受賞している。北里もノーベル賞を受賞して当然であるはずだが、それはありませんでした。この当時にはまだ東洋の後進国日本の研究者は公的に評価されない風潮があったのでしょう。