医療あれこれ

医療の歴史(93) 脚気論争~その1

 江戸時代中頃より、精米技術が進歩し白米を常食とする徳川将軍を始め一部の上層の人々に「脚気(かっけ)」が原因で死亡する者が増加していきました。手足の浮腫、労作時の動悸・息切れがあり、神経麻痺のため歩行困難となり最終的に脚気衝心(かっけしょうしん)と呼ばれる心不全で死亡するという厄介な病気だったのです。13代将軍徳川家定も14代将軍徳川家茂も脚気衝心で亡くなっています。13代家定のときには今まで将軍を診察する奥医師は漢方医でしたが、漢方医だけでなく以前ご紹介したように種痘の普及に尽力した蘭方医の伊東玄朴や戸塚静海の二人(医療の歴史91)も奥医師に任用され漢方医とともに将軍の治療にあたりました。しかし将軍の病態は改善せず35歳の若さで急死してしまったのです。

 明治時代になっても脚気の勢いは収まらず、明治天皇もたびたび脚気に罹りましたが、脚気衝心にまでは至らず回復していました。脚気は次第に白米を常食とするようになった庶民にも拡がっていき、身分の上下を問わず脚気が日本中に蔓延し、むしろ庶民の方に発症率が高いという状態となってしまいました。また日本の軍隊、陸軍や海軍では兵隊が脚気にかかって脱退したり、死亡する数が増えて大問題となっていました。当時、脚気の原因として中毒説、伝染説(細菌説)、栄養障害説などが唱えられていましたが詳細は不明のままで、真の病態解明が待ち望まれていたのです。

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 この問題に取り組んだのが、英国留学を終えて帰国し海軍軍医となった若き日の高木兼寛(たかぎかねひろ)です。高木は日向国諸県郡(宮崎県宮崎市)に生まれ薩摩藩医となり、薩摩藩蘭方医の石神良策に師事し、戊辰戦争に従軍しましたが銃傷などの治療などに対する無力さを実感し、英国人医師ウィリス(医療の歴史90)に入門することになりました。その後ウィリスに認められ教授に抜擢され、さらに石神良策の推挙で海軍軍医となり、最終的に最高位で少将相当の海軍軍医総監になったのです。

 高木はまず疫学的調査から、脚気の発症は食事中の成分に問題があるのではないかと考えました。海軍では軍艦で演習のため長期航海にでますが、この間に脚気が多数発症しました。航海中に兵たちは日本食を食べるのですが、これをパン食の洋食にしてはどうかと考え、実際の航海演習で洋食を食べさせてみると脚気発症は激減しました。しかしまだ完全ではありません。高木はさらに、民間の経験からその効果が考えられていた麦飯を試みたところ、麦飯を食べさせた海兵には一人の脚気患者も現れなくなりました。麦飯のどの成分に脚気予防効果があるのかは以前不明でしたが、高木は麦飯により脚気を予防できるとの発表をおこなったのでした。