医療あれこれ

医療の歴史(80) 日本人初の人体解剖

 日本で最初に人体解剖をおこなったのは山脇東洋です。当時、日本の医学は田代三喜、曲直瀬道三に代表される李朱医学に基づく「後世派」、およびこれより古い後漢時代の張仲景が著した「傷寒論」に基づく「古方派」という二つの流派がありました。古方派を代表する医学者として後藤艮山がいましたが、山脇東洋は後藤艮山の門人で実証的医学を推進した人です。それまで漢方医学では、人間の内臓は五臓六腑(ごぞうろっぷ)、すなわち肝臓・心臓・脾臓・肺臓・腎臓の五臓と、胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦(さんしょう)(リンパ管と思われる)からなる六腑で構成されるとされていました。東洋はこの説に疑問を持ち、医学の理論を実証するためには正確な人体解剖が必要であると考えていました。しかし当時、人体解剖は御法度であったことから、ます人体に類似した点が多いとされていたカワウソの解剖をおこなったのです。

 カワウソ解剖の結果、東洋は五臓六腑説に疑念を抱くようになり、人体解剖をおこなう願望はますます強くなったまま50歳近くまで年齢を重ねてしまいました。その時、たまたま若狭小浜藩主の酒井忠用(ただもち)が京都所司代に赴任し、酒井家の藩医らが東洋の門人となったことから、京都所司代に藩医を介して解剖実施の願いが出され、死罪となった囚人の解剖が許可されることになりました。その後、東洋がおこなった解剖を基に1795年、解剖学書「蔵志(ぞうし)」が刊行されたのです。蔵志の内容については、下の写真で解るように対象が死刑人で打ち首となった者であることから頭部の解剖には至っていないこと、また小腸と大腸が区別されていないなど不備も多く、古方派・後世派の双方から多くの批判がでました。東洋自身もその不備を認めて、これ以後、さらに精密な人体解剖の研究を続けて欲しいと述べています。しかし彼のおこなった人体解剖はその後、医学を科学的に実証しながら発展させていく道を作ったこととして医学史上重要な事柄となったのです。

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