医療あれこれ

医療の歴史(74) 医学天正記

 医療の歴史(71)でご紹介した曲直瀬道三に始まる道三流医学を体系化させたのが、曲直瀬玄朔(まなせげんさく15491631)です。道三の妹の子として京都に生まれましたが、幼くして道三の養子となり道三に導かれて高い医学的技量を身につけていきました。1578年の豊臣秀吉による朝鮮出兵にも従い、秀吉の弟、関白豊臣秀次の喘息を治療したことから秀次の侍医となったのです。しかし秀次が謀反の疑いで切腹させられた時、玄朔も連座で常陸国へ流罪となってしまいました。この挫折経験がその後の彼にさらに医師としての深い理念を修得させることにつながりました。4年後許されて京に戻り、1608年には二代徳川将軍秀忠の病を治療するため江戸に招かれた後、83歳で没するまで京と江戸の両方で活躍しました。

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 曲直瀬玄朔が28歳の時から30年間にわたり診療をした345症例を記録したのが「医学天正記」です。病気の種類ごとに分類して診療にまつわる情報や処方内容を記載してあります。例えば1583年、正親町天皇の病気を診療していますが、玄朔が診療するまでに竹田定加法印が診察し「傷寒」と診断、次いで半井通仙が「中風(ちゅうぶ)」と診断。最後に曲直瀬玄朔が「中風」との診断を下し通仙散の処方により治癒したという記録があります。「傷寒」は重症の感染症であり、「中風」は脳血管障害に伴う片麻痺などの症状を指すこともありますが、この場合は発熱を伴う風邪の類を意味するものと思われます。いずれにしろ玄朔が正しい診断を下したことや、その当時、天皇の病気にあたっては竹田、半井という古くからの名門医家が次々と診療にあたった様子がわかります。

 「医学天正記」には、正親町天皇、後陽成天皇を始め、織田信長、豊臣秀吉、毛利輝元、徳川家康、徳川秀忠など天皇、大名のほか一般町民まで幅広い診療が記録されています。当時の医療情勢のほか歴史的資料としても貴重なものであるといわれています。