医療あれこれ

医療の歴史(62) 鎌倉幕府の医療

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 源頼朝は生前、平家討伐に最も功績のあった実の弟、源義経を死に追いやっています。ほとんど一人で平家を倒した義経は京都で非常に人気があり、後白河法皇は義経を従五位下に叙して検非違使太夫尉(けびいしたゆうのじょう)、通称「判官(ほうがん)」の位を与えました。頼朝はこれらから義経は自分を脅かす存在と信じ込み、鎌倉入りを許しませんでした。義経は平泉中尊寺を建立した大勢力であった藤原秀衡を頼って奥州にのがれます。頼朝はこれを追い立て、秀衡の死後、義経だけではなく奥州藤原一族ごと討伐してしまいました。その際、全国の行政、軍事権を持つ総追捕使(そうついぶし)という位を朝廷からもらい、平安時代からの国司にかわって守護・地頭を置くことにより、全国を自分の直属の部下である御家人で占める体制を作りました。日本全国を初めて一人の力で統一したのです。1192年、征夷大将軍となり鎌倉幕府を開いたのでした。

 しかし鎌倉幕府は軍事的な面で全国を統率する体制を作りましたが、医療体制の確立までには及びませんでした。要人が病気に陥ると、京都から官医を招き入れ治療にあたらせるようなことが続いたのです。生前の源頼朝は激しい歯痛に悩まされており、盛んに加持祈祷を行って歯痛の治癒を祈願させていました。しかし歯痛は当然のことですが全く治まらず、飛脚を飛ばして京都から典薬頭丹波頼基から薬をもらったそうです。

 頼朝の死後、娘の乙姫が病に倒れたときも、母親の北条政子は快復祈願の加持祈祷をおこないましたが、容態ははかばかしくありません。そこで当時、最高の名医とされていた丹波時長を京都から呼ぶことにしました。しかし丹波時長はなかなか鎌倉の招聘に応じようとしません。京都の御家人を通じて朝廷から圧力をかけるなどして、ようやく鎌倉入りした時長は乙姫を診察し、朱砂丸という漢方を処方しました。これに対して北条家から金二十両が与えられましたが、京都ではこのような破格の褒賞はなかったそうです。乙姫はやがて少し快方に向かいます。しかし一ヶ月後様態は再び悪化し、時長はこれを「凶症であり、とても人力の届くところではない」と診断し、京都に帰ってしまいました。時長が鎌倉を発った四日後、乙姫は息をひきとりました。当時では、医師が「人力の届くところではない」と診断すると、あとは加持祈祷に任せるのが通常のことだったそうです。