医療あれこれ

医療の歴史(51) 僧侶による医療

 律令制度で医療に関する法律である医疾令が出され、中央の医療を統括する典薬寮がありました。ここでは以前にご紹介したように医師などの医療職を養成する制度が確立していました。しかし、奈良時代の記録では、名医とされる人のほとんどが僧侶で、特に天皇が疾病に罹患した時など高貴な人の医療にたずさわったのは僧侶で、宮廷に看病僧として仕えていました。ここでいう看病とは、現代のように病者の身の回りの世話をするという意味ではなく、薬石による病気の治療はもちろん病気治癒を祈る祈祷など、当時の全ての医療をおこないました。聖武天皇の病気に対して医療にあたった看病僧は126名に及んだそうです。

 中にはその医療が成功することにより高い地位を得た場合が多くみられました。その代表的な人物が僧道鏡です。道鏡は、河内国、弓削連(ゆげむらじ)氏出身で、弓削道鏡とも呼ばれています。看病や湯薬の法に詳しく、宮中に看病禅師として仕えていました。聖武天皇の娘である孝謙天皇が退位し孝謙太上天皇となった後、病気にかかり召し出された道鏡は彼女の看病に成果をあげてその寵愛をうけるようになったのです。その時の天皇は、藤原四兄弟の長男である藤原武智麻呂の子、藤原仲麻呂(706764)によって擁立された淳仁天皇ですが、藤原仲麻呂は淳仁天皇から恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜り、破格の待遇を得て太政大臣に昇りつめ権力を掌握していました。そんな折、孝謙太上天皇の寵愛をうけている道鏡との対立が深まり、恵美押勝はその地位を保全しようと764年に兵をあげました。しかし孝謙太上天皇側の迅速な対応により押勝は殺害され、淳仁天皇は退位する結果となってしまったのが恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)です。

 その後、孝謙太上天皇は再び即位し称徳天皇となりますが、道鏡は天皇の信任も厚く、太政大臣禅師、さらに法王となって天皇に準ずる待遇を受け仏教政治に腕をふるいます。そして称徳天皇の意向を受けてついに道鏡を皇位につけようとする事件までおこったのです。これに対してはさすがに反対派の動きも鋭く、和気清麻呂らの道鏡即位反対運動により頓挫します。770年、称徳天皇が死去すると、天皇の親任以外に政治的基盤のなかった道鏡の立場は暗転し、下野(しもつけ)薬師寺の別当として追放され772年、同地で死去したとされています。

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