医療あれこれ

医療の歴史(109) 胃カメラの開発3~日本人の功績

 クスマウルの作った胃鏡は硬い金属製の管を口から挿入するものだったので、医療では全く役に立ちませんでした。その後しばらくの間は、内視鏡で胃の中を覗くことなどとてもできないという時代がつづいたのですが、それでも何とか直接胃の中をみて、例えば早期の胃ガンを発見して治療したいという思いは消化器病を専門とする医療者にとって共通の願望でした。そのような医療器具を作れないかとカメラ会社に話しを持ちかけた医者は東京大学分院の外科医だった宇治達郎でした。

 内視鏡が開発されるまで、胃病変を画像で診断する方法としては、被験者に造影剤のバリウムを飲んでもらってX線写真を撮影する胃透視(胃部造影X線写真)しかありませんでした。バリウムはX線を通さないので、口から飲んで胃にたまったバリウムの部分が影になってX線写真に浮かび上がるという原理です。しかしこれでは直接的に胃を覗いているのではありませんから、たとえ何らかの病変があったとしてもそれが何なのかを診断することが困難であることも多いのです。 

戦後間もない1947年、宇治達郎は胃内を覗きこむ方法はないかと写真機や顕微鏡などの制作が専門であったオリンパス(当時オリンパス光学工業)に話を持ち込んだのでした。オリンパスでは、顕微鏡制作をしていた杉浦睦夫、および入社間もない深海正治の二人が担当者となり、宇治医師との3人で胃カメラの開発が始められました。彼らは管の素材をどうするか、その先に取り付ける超小型カメラのフィルム、レンズの開発、持久性の高い小型電球の作成など、試行錯誤を繰り返しなegd.jpgがら1950年、先端にカメラを取り付けた「ガストロカメラ」を完成させたのでした。世界で初めての業績ということになります。このガストロカメラ開発の経緯は、吉村 昭氏の小説「光る壁画」新潮文庫(右写真)で詳しく述べられています。この小説では、深海正治さんが曾根菊雄という名で主人公として描かれています。

なお、彼らが完成させた「ガストロカメラ」は現在の胃内視鏡とは異なり、管の先端に取り付けた小型カメラを直接胃内へ挿入する方式です。現在はグラスファイバーを用いて体外からの強力な光源で、体外のモニターで直接写真を撮るもので、宇治らが開発した方式とは異なります。しかし俗称で胃内視鏡のことを「胃カメラ」と呼んでいることはご存じのとおりです。