医療の歴史(94)脚気論争~その2

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医療の歴史(94)脚気論争~その2

 高木兼寛が述べた「麦飯を食べることにより脚気を予防することができる」という説は、明治期に入って初めて登場したものではなく、漢方医の間では100年以上前から知られていたことでした。しかし麦飯のどの成分が脚気に対して有効なのかについて実験的研究がなされたわけでもなく、ただの言い伝えに過ぎませんでした。高木兼寛はこの事実だけを公式に発表したのですから、これに真っ向から反対する人物が現れました。それが陸軍軍医だった森林太郎(小説家の森鴎外)です。  

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 森は20歳という若さで東大医学部を卒業しドイツ留学ののち陸軍軍医になっていました。ドイツ医学は研究室医学などと呼ばれ、実験をおこなわなければ医学の本質は明らかにされない、というものでした。森は「誇り高き帝国陸軍の兵士に麦飯など食わせられるか」と、高木兼寛の麦飯有効論を否定しようとして、人体実験を行なったのです。陸軍兵士6名を選び米飯、麦飯、パン食を8日間与えました。その結果、米飯が最も優秀であったと述べています。今から考えると森の実施した人体実験は、被験者の数が少なすぎること、実験期間が短すぎることなど問題点が多すぎます。現在では臨床実験によって何らかの、より正確な結論を導き出すためには少なくとも何百人、何千人の被験者を募っておこなう大規模臨床試験であることが必要なことは周知のことです。しかし高木には当時、この森の説に反論する根拠はありませんでした。

 しかし、まもなく厳密にして壮大な大規模臨床試験が実行されることとなってしまいました。それは日清、日露戦争です。海軍では二つの戦争を通して、兵士に麦飯を食べさせた結果、脚気患者は皆無でした。一方、陸軍では日清戦争当時、森の説を取り入れ、今まで通り米飯を食べさせていたのですが41千余の脚気患者と4千の同病死者を出してしまいました。これに懲りた陸軍の大本営では日露戦争になると、敵地に麦飯を輸送することを主張したのですが、森はこれを断固拒否しました。その結果、日露戦争では日清戦争をはるかに上回る25万余の脚気患者と28千にのぼる同病死者を数えました。海軍と陸軍の兵士は同じような条件の下で戦いながら、異なるのは食事だけでした。日清・日露戦争の結末は、現在の臨床医学で基本となる「根拠に基づく医療」でいう根拠とは、森がおこなった少人数を対象とした実験室の結果ではなく、大規模試験であるべきということを実際に示したものでした。

 日露戦争後、当時の陸軍医務局長は脚気大量発生の責任をとり退任し、後任には森林太郎が就きました。その後、明治41(1908)から結成された「脚気病調査会」で公式に脚気の原因追求が始まりました。この調査会は大正13(1924)まで続きましたが、その間、次々と明らかにされた報告は森の説を否定する内容ばかりでした。森は途中で医務局長を辞任しましたが、大正11(1922)に亡くなるまで日清、日露戦争で自分の犯した罪の大きさに気づき高慢と固執に満ちたそれまでの性格が大きく変貌していったことでしょう。