医療あれこれ

医療の歴史(89) お雇いドイツ人医師

 前回ご紹介したように、明治政府は1870年ドイツ医学採用を正式に発表し、外科学を教えるドイツ陸軍軍医レオポルト・ミュルレルと内科学を教えるドイツ海軍軍医テオドール・ホフマンが来日しました。彼らを派遣したドイツ政府は、軍隊式に医学教育を推し進めることが日本において速やかな医学の発展に好都合であると考えたからです。「大学東校」において特にミュルレルは文部大臣に次ぐ権限を持ってドイツ式医学教育を日本の実情も考慮せず強引に実施したのです。このため大学東校の初代校長であった佐藤尚中はこれに従うことはできず官職を去り、私立病院を設置するとともに順天堂を開き現在の私立順天堂大学医学部の基礎を作ったのでした。

 来日ドイツ人医師のうち、特に貢献度が高かったのはエルウィン・フォン・ベルツです。東京医学校で生理学と薬理学の授業を担当し、後には内科学を教えていました。1876年から1902年まで在日期間が長かったこともあり日本の医学に与えた影響は多大なものであり、医学史学者の小川鼎三(ていぞう)氏はベルツを「日本医学の父」と呼んでいます。ベルツはその論述の中で日本人について「科学の成果を引き継ぐだけで満足し、その成果を生み出した精神を学ぼうとしない」と言いました。つまり日本人については、すぐに結果を求めるのでなく根本的に新たなものを作り出していく心構えが必要だと言いたかったのでしょう。これはベルツの日本人に対する批判というより、日本人に対する叱咤激励であったと思われます。近年でも彼の業績をたたえて1964年、製薬会社(ベーリンガーインゲルハイム)により「ベルツ賞」が設立され、優秀な医学論文を表彰する事業が現在も続いています。

berz.jpg

 ベルツとともに日本の医学に大きな影響を与えたのがユリウス・カール・スクリバで、東大医学部で外科学の指導にあたりました。スクリバの性格は豪放で、手術についても大胆なところがあったようです。しかし東洋において彼を凌ぐ技術を持った外科医はおらず、近隣のアジア諸国からも手術を受けに来日する人が多くいたといいます。スクリバの手術は、手術室の施設自体が十分なものではなかったこともあり、感染症を避けるため常に迅速に実施されました。在職20年を機に東大の教員を退き、聖路加病院の主任外科医となった後も亡くなるまで日本に滞在しました。スクリバは大変な親日家で日本人妻を迎え、亡くなったあと遺族は性を「須栗場(すくりば)」と改めて、この苗字は現在も少数ながら受け継がれているそうです。