医療あれこれ

医療の歴史(84) 種痘法の普及

 日本においても天然痘は致死率40%以上で多くの人がこの疾患で亡くなっています。江戸時代の平均寿命は男女とも30~40歳ぐらいで現代に比べて圧倒的に短命でしたが、この原因は10歳までに天然痘を発症して死亡してしまう子供が多かったためといいます。また幸い死に至らなかったとしても、後遺症で「あばた顔」が残りました。

 天然痘を予防し撲滅する道を開いたのはイギリス人エドワード・ジェンナーです。(医療の歴史20・・・クリックして参照して下さい)。ジェンナーは、天然痘や牛の天然痘である牛痘に一度かかると、今で言う免疫ができるのではないかと考え、牛痘にかかった酪農家の女性の皮膚から膿を採取し、ジェンナー家の使用人の息子8歳のフィリップス少年に接種するという人体実験をおこない牛痘を使った天然痘ワクチンを作り出しました。この種痘法により天然痘患者は激減していき1977年、最後の天然痘患者が報告されて以来、世界中で天然痘は完全に撲滅されました。1980年、世界保健機関(WHO)は天然痘撲滅宣言を発表しました。ジェンナーの人体実験から200年余り後のことです。天然痘ウイルスは今後の研究のためにとアメリカとロシアに保管されていましたが、生物テロに使われる危険もあるとのことから、すべて抹消され人類は地球上から天然痘の病原体を完全に消し去ることに成功したのです。

 日本においては、ジェンナーの実験から6年前に秋月藩医の緒方春朔が、牛痘ではなく、人の天然痘から採取した膿を子供に接種する実験に成功しています。しかし人の天然痘接種では実際に天然痘を発症する危険もあり、牛痘を用いる種痘法の方がはるかに安全な方法ですが、問題は牛痘種をどのようにして入手するかということになります。オランダ商館医シーボルトは来日に際して牛痘法を伝えましたが、持参したワクチンが腐っていたため接種には成功していません。佐賀藩医楢林宗建(ならばやしそうけん)は牛痘種の取り寄せを藩主鍋島直正に進言し、1874年バタヴィアからの牛痘入手に成功しました。佐賀藩は長崎警備を担当しており、長崎のオランダ商館に直接注文を入れ輸入することができたのです。また鍋島直正は痘苗(とうびょう)を江戸藩邸に送り、藩医伊東玄朴(げんぼく)に種痘させたことがきっかけで江戸に「お玉が池種痘所」が開設され、牛痘を用いた種痘法が全国的に拡がっていくことになりました。当時は漢方医と蘭方医の対立がありました。幕府の要職を占め主導権を握っていたのは漢方医であり、蘭方医はその理論を認められないばかりか、むしろ弾圧を受けていたのです。その時、この牛痘種痘法の普及はその効果から蘭方医の優位性を導くことになったのでした。