医療あれこれ

医療の歴史(82) シーボルトの来日

siebold.jpg

 江戸後期になって(1823年)医学・博物学者のオランダ商館医シーボルトが来日しました。当時のオランダはナポレオンの支配から逃れ、ネーデルランド王国として国力の回復と世界へ進出することをめざしていました。シーボルトはそのような国家政策から日本を博物学的見地から調査研究する目的で派遣されてきたのです。長崎の出島に到着後、医師であるシーボルトは日本人における病気の治療と医師に対する医学教育を目的として鳴滝塾(なるたきじゅく)を開設しました。高野長英など多くの門人を集め、持参した医療機器や医学書などを公開し新しい医学・医療の普及をおこなっていました。

 しかしシーボルト来日の本来の目的は日本の博物学的調査です。長崎に居ては日本の調査はできないことからオランダ医学の全国的普及を名目にして江戸に出府することになりました。江戸においても全国地図や動植物の資料を収集するかたわら、江戸の医師たちと医学的交流を深め、新薬の使用や眼科手術などを実践してみせました。日本の資料を多く入手することに成功したシーボルトは長崎に戻り、帰国に備えて収集した資料を整理して出発の時を迎えました。そのときいわゆるシーボルト事件(1828年)が勃発したのです。

 詳しい日本地図の入手を望んだシーボルトは、江戸にいる幕府天文方の高橋景保から伊能図を送ってもらいました。伊能図とは伊能忠敬(いのうただたか)が幕府の要請で全国を廻り1821年に完成させた大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)という詳細な日本地図です。当時幕府は異国船打払令をだすなど海外との交流を望んでいなかったこともあり、伊能図も海外持ち出し禁止になっていた物品でした。伊能図を送った高橋景保は処刑されシーボルトも国外追放処分となってしまったのです。

 最後は良好な結末にはなりませんでしたが、シーボルトの来日は日本医学界に多大な影響を及ぼしました。新しい治療法の導入、優秀な外科医や蘭学者の育成など彼の功績は計り知れないものでした。