医療あれこれ

医療の歴史(79) 享保の改革と医療

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 第7代将軍徳川家継は急性肺炎による呼吸不全により8歳の若さで亡くなり、徳川家康より続いた宗家が途絶え、御三家の一つである紀州藩主の徳川吉宗が1716年に第8代将軍職に就きました。吉宗は家康のひこ孫にあたり、在職中は「すべて権現様(徳川家康)御掟の通り」と幕府が開かれた当時への復古を掲げて「享保の改革」をおこなったのです。この中で医療関係についても積極的な政策を展開しています。吉宗の医療に対する思い入れは強く、将軍職に就くと同時に対馬藩に対して朝鮮で最も著名だった「東医宝鑑(とういほうかん)」の献上を求め、日本語版を出版させ座右に置き自ら医学・医療を修得するとともに、医師を育成するため幕府所蔵の医書を貸し与えるなどをおこなっています。東医宝鑑の内容は明の李朱医学を基礎としたものですが、実用性が高いもので、これに基づいて朝鮮人参などの薬草を入手し国産化をめざし小石川薬園の増設などをおこなっています。。

 また享保の改革のなかで、広く庶民などからの意見を求めるため評定所の門前に目安箱を設置しましたが、ここの投書から、病気になっても治療費などが支払えない貧民が多いことを知ると、小石川薬園内に養生所(小石川養生所)を設けました。これは貧民に対する無料診療所であり、内科の医師が就任して、外科医はいませんでした。山本周五郎の連作短編小説『赤ひげ診療譚』や、この作品を映画化した黒澤明監督作品の『赤ひげ』は、養生所を舞台とした医師の物語です。医療費は幕府予算と拝領地からの収入で運営されていました。入所希望者は増加の一途をたどり財政的に困窮したこともありましたが、幕末に廃止されるまで継続され、明治期になって東京市養育院の設立に継っています。小石川薬草園は、大岡忠相が庇護した青木昆陽が飢饉対策作物として甘藷(サツマイモ)の試験栽培を行った所としても有名です。