医療あれこれ

医療の歴史(76) 病弱だった徳川家光

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 徳川家光(16041651)は、二代将軍秀忠の嫡男で、三代将軍となった1623年以降、武家諸法度や参勤交代の制度を確立し江戸幕府への集権制度を確立したことなどで知られています。またテレビドラマや映画ではりりしく力強い将軍として描かれています。しかし実際の家光は幼少時より病弱でたびたび大病に罹患していました。1606年、3歳のときの大病は家康が処方した薬で回復したこと(医療の歴史75)は前回述べた通りですが、その後も重い病気によく罹患していました。

最も深刻だったのは1629年、家光26歳のとき天然痘(疱瘡)に罹患しました。天然痘は医療の歴史でもたびたび述べたように天皇家や政権中枢の重要人物が倒れた致死的疾患で、成人になってから罹患すると特に重症化するとされています。しかし家光の乳母だった春日局の献身的な看病により快方に向かいこれを克服しました。春日局は、織田信長を本能寺で殺害した明智光秀の重臣だった斎藤利三の娘ですが、幼少時に軽い天然痘に罹患したため、天然痘に対する免疫があると考えられたこともあり、家光の乳母に取り立てられたともいわれています。いずれにしろ確実な治療法がなかった天然痘を克服したということは、家光の罹患した天然痘は重症の部類に入るものではなかったということでしょう。

その他、25歳の時に脚気に、43歳のときにマラリアに罹患するなど、たびたび場合によっては生死に関わる大病を患っていました。さらに30歳代からは精神的ストレスによるものでしょうか抑うつ状態であったといい、40歳代になるとたびたび頭痛がおこり血圧が高かったのではないかと想像されています。このように家光が病弱であったこともあり、家康、秀忠の時代に比べて多くの医官が採用されることとなり、従来の2倍以上の人数であったとされています。

家光の最期は、執務中に突然ふるえが始まりそのまま意識不明となり死亡したといわれています。少し前より歩行障害などが出現していたともいわれ、これらから考えると何らかの脳血管疾患、高血圧があったとすると脳出血の可能性が高いでしょうが、これが死因ではないかと思われます。享年48歳でした。徳川幕府の骨格を作り上げた三代将軍は突然の発病によりこの世を去ったのでした。