医療あれこれ

医療の歴史(75) 徳川家康と薬

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 1603年、江戸に幕府を開いた徳川家康は、それまでの長い戦の経歴や少しでも長生きして天下を取るという思いから、健康志向が強くとくに薬に関する知識もかなりのものだったようです。少しの病気であれば自分自身で薬を処方し調合し服用していました。1605年、将軍職を徳川秀忠に譲り駿府に隠居した後は、この薬に対する思い入れが特に強くなったようです。江戸と行き来の折にも道すがら薬草に注意し、見たこともない草木があるとすぐに侍医に調べさせたりしていました。薬について家康はなみの医師よりはるかに知識が豊富だったとされています。

 家康自身が患った病気として知られているのは、1584年、羽柴(豊臣)秀吉と戦った小牧・長久手の戦いの時、背中に癰(よう;細菌感染による腫瘍)ができました。家康自身の膿をしぼりだしたりする処置では悪化するばかりでしたが、家臣がもってきた薬を塗って治癒したとされています。このころは家康の薬についての知識が十分ではなかったのかも知れません。

 家康の孫、徳川家光は生来、身体が弱く重い病気によく罹患しましたが、1606年、3歳のとき大病を患い、侍医たちが調合する薬が全く効きませんでした。このとき駿府から家康が「紫雪」という熱病などに効くという内服用の練薬を持って見舞いに来ました。これを与えたところ家光の大病はたちまち治ったということが、後に家光の乳母、春日局が日光に奉納した「東照大権現祝詞」に書かれています。

 1616年、75歳で没した時の病気は天ぷらを食べ過ぎたためとか、さまざま言われていますが、胃ガンであったという説が有力なようです。腹部に腫瘍ができたのですが、家康自身はこれを「寸白(すんぱく;寄生虫のサナダ虫による)と診断し、万病円という当時万病に効くといわれていた丸薬を服用していました。幕府を開く前から家康の侍医として仕え500石の禄を与えられていた片山宗哲はこれをみて、万病円のような大毒の薬を服用していては身体そのものを痛めてしまうので直ちに止めた方がよいと忠告しました。しかしこれを家康は聞き入れずかえって機嫌を損じて、宗哲は信濃国に流されてしまいました。家康の身体は日に日に憔悴して亡くなってしまったのですが、宗哲はそれから2年後、二代将軍の徳川秀忠により許されて江戸に戻ったのでした。

 徳川幕府は、片山宗哲など京で名医とされた医師や、平安時代から医家の名門であった和気氏の子孫、半井成信なども侍医として仕えさせていました。しかし当代の名医、曲直瀬玄朔(医療の歴史74参照)と生前の家康はたびたび謁見していましたが、玄朔を重用することはありませんでした。これには玄朔が豊臣秀吉に仕えていたことが影響していたともいいます。しかし玄朔は二代将軍秀忠に重んじられ活躍したことは前回述べた通りです。