医療あれこれ

医療の歴史(72) キリスト教と医療

namban2.jpg

 1549年イエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し、大友宗麟などの大名の保護を受けキリスト教布教を始めました。しかし仏教徒の反対や宣教師の不足などでなかなか京都まで布教は進みませんでした。ザビエルが帰国したあとポルトガル人宣教師が九州を中心にして布教活動に努め、やがて織田信長が足利義昭を室町幕府の第15代将軍として迎え入れ入洛した翌年の1569年、信長はポルトガル人宣教師と初めて面会しました。そして宣教師が京都に在居し布教活動をおこなうことが許され、さらに1575年になって宣教師たちの希望にまかせて京都の四条坊門に南蛮寺が建立されたのでした。史料によると南蛮寺では大規模な医療がおこなわれたそうです。

 宣教師たちは、キリスト教布教とともに、慈善事業として一般の医療活動とともに救ライ活動を展開していました。ライはハンセン病のことで、ライ菌の感染症です。皮膚症状や末梢神経障害があり、伝染性の不治の病という誤った考えから、患者の隔離や不当な差別がありましたが、現代では抗菌薬の併用療法が確立されており、恐れる病気ではありません。欧州の昔の修道院ではライ患者の収容施設を併設し慈善事業がおこなわれていましたが、日本におけるキリスト教布教活動でも同様でした。

 その後の布教活動と救ライ活動は、1587年の豊臣秀吉によるバテレン追放令のため南蛮寺は壊され、宣教師たちは悲劇的な迫害を受けるようになりました。ただわずかに残ったライ収容施設は一般の人がこれを嫌って近づかなかったため、宣教師たちの隠れ家の存在であったようです。しかし徹底的なキリシタン弾圧と相次ぐ殉教のため、医療の歴史(70)でご紹介したようにアルメイダの伝えたポルトガルの医学は日本に土着することはありませんでした。