医療あれこれ

医療の歴史(67) 躁うつ気質だった足利尊氏

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 日本国最初の国難「元寇」を退けた鎌倉幕府は、その後衰退が目立つようになって来ました。この機に政治の中心を朝廷に取り戻そうと立ち上がったのが後醍醐天皇です。一度は倒幕計画が幕府に知れ、隠岐に流されたりもしましたが、最終的に幕府方で源氏の名門であった足利尊氏(13051358)や、尊氏と同族の新田義貞らの離反があり1333年、鎌倉幕府は滅亡し朝廷による「建武の新政(建武の中興)」が始まりました。しかしこの建武の新政も政権樹立後の恩賞が恣意的で、後醍醐天皇の独善によっておこなわれたことがあり、武士たちの不満が高まってきました。例えば足利尊氏は第一功労者として顕彰され、新田義貞もその功績が評価されましたが、建武の新政で第一の立役者ともいうべき河内の楠木正成などは正当な恩賞を受けることはありませんでした。新政府に失望した武士達は次第に幕府を懐かしみ、自分達の権益を確保してくれる棟梁を求めるようになったのです。幕府は滅びたものの、北条氏の勢力は残存しており、北条高時の遺児時行は再興の兵を上げ鎌倉を奪還しました。これに対し、尊氏は朝廷の命令を無視して自ら兵を率いて北条軍を打ち破り、鎌倉を占拠し独断の執務を行うようになります。これに対して朝廷は新田義貞を大将として尊氏追討を命じ、一時尊氏は九州まで落ち延びることになりました。天皇を担いでいなければいずれは敗れることを悟った尊氏は、不遇であった光厳上皇から院宣をもらい、これまで賊軍だった尊氏軍は新たに官軍となったのです。これを契機に東へ軍を進めた尊氏は、新田義貞と楠木正成との連合軍を打ち破り京都に入り、光厳上皇の弟君を光明天皇として擁立しました。そして征夷大将軍に任ぜられ、京都にて幕府を再興することになります(室町幕府)。一方、京都を追われた後醍醐天皇は退位せず吉野に朝廷を遷したため、二朝が存在する南北朝時代が始まったのです。

 ところで足利尊氏は大将として勇猛果敢に戦をすすめる一方、気の弱さや決断力の不足がありました。このことから推察すると「躁うつ気質、とくに躁状態が有意な人だったと思われる」と「日本の歴史;南北朝の動乱」の著者佐藤進一氏は述べられています。さらに歴代の足利家当主には異常性格の素因があったようで、父の足利貞氏は晩年に発狂したとか、祖父の足利家時は天下をとれないことを嘆いて自害したなどといわれ、尊氏の子孫でも曾孫の足利義教を始めとして異常性格と思われる足利将軍を輩出しています。少なくとも尊氏の二面的な性格は、後醍醐天皇との関係からも明らかで、従順な部下であったものが突然反旗をひるがえし、また和睦するといった天下を取る英雄というには相応しくない行動が多かったといえます。そもそも南北朝という対立を引き起こしたのも尊氏の優柔不断な性格からではなかったかと清水克行氏はその著書「人をあるく;足利尊氏と関東」(中央公論社)の中で述べられています。

 尊氏の死因は、背中にできた「癰(よう)」とされています。癰とは、おできのようなもので皮膚の細菌感染症で、その原因はうっかり毒虫にさされたとか戦での刀傷のあとなどと言われています。