医療あれこれ

医療の歴史(63) 鎌倉時代の仏教医学

 鎌倉時代以前から、医学・医療に関わる僧医は多く見られましたが、奈良時代の鑑真和上のように詳細な医学的知識をもった僧はあまりいませんでした。しかし鎌倉時代に入ると医療の専門知識を持つ僧医が多く出現し、貴族から庶民まで幅広く医療に関わるようになったのでした。

 仏教自体は平安末期から鎌倉にかけて大きな変革がみられました。朝廷や貴族を中心とした仏教ではなく、広く武士や庶民に浸透していった浄土思想を背景とした新しい宗派として、法然が開いた浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍による時宗、日蓮による法華宗があります。さらにインド、中国から伝来した禅宗では、栄西により臨済宗、および道元により曹洞宗が広められてきました。これらは鎌倉時代に新たに成立した新宗派であり、鎌倉新仏教と呼ばれています。

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 これら新宗派の開祖のうち、特に臨済宗を広めた栄西(「えいさい」または「ようさい」;右の絵)は、1168年と1187年の二度、中国の宋に渡り、禅を修得するとともに、医療としての茶の効用や薬用効果を学んできました。帰国後、鎌倉、京都から九州までも禅宗の布教をしたのですが、これとともに医療として茶の薬用効果を広めたのでした。1211年、後鳥羽上皇の下命によりこの茶の効用を記した「喫茶養生記」を撰述して献上しています。1214年、鎌倉幕府の第三代将軍、源実朝が体調不良で栄西に加持を求めたとき、栄西はこれを二日酔いと判断して茶を献上し病状を快復させたことが「吾妻鏡」に記されています。

 喫茶養生記は、上下二巻からなり、序文に「茶は養生の仙薬であり、延命の妙術」であることが書かれています。養生の根源は、人体のうち肝、心、肺、腎、脾の五臓であり、それぞれ肝は酸味が、心は苦味が、肺は辛味が、腎は鹹味(しおみ、またはからみ)が、そして脾は甘味がそれぞれ適した味であり、これらの味をもつ食物を調和よく摂ることが重要であるとしています。これらのうち日本人は苦味を摂たがらないので、心臓が弱り若死にする、したがって茶によりこれを補充することが大切なことである、ということが述べられています。