医療あれこれ

医療の歴史(55) 平安時代の医療制度

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 平安時代は桓武天皇が平安京(京都)に都を遷した794年から、源頼朝が鎌倉幕府を成立させる1185年までの約390年間をさしますが、前代(奈良時代)から引き継がれた律令制度に基づく社会であった前期、荘園制が生まれ律令制が崩壊していった中期、および武士が台頭して鎌倉時代に引き継がれていく後期に分けて考えるのが大方の見方です。平安前期では、医療制度については律令制度で生まれた典薬寮(医療の歴史42)があり、これに基づいて設置された施薬院が平安時代後期にかけて大きな力を持つようになりました。

 典薬寮は奈良時代に比べて相当大きな規模となり、地方から送られてくる薬物の管理、薬園や乳牛の牧場の管理、医学教育および医師の任免、朝廷関係者や畿内住民の診療まで、すべての中央医療関係を管轄していました。この時代に医学を学んでいた医生の正確な数字は明らかではありませんが、数十人の規模であったと考えられています。定められた教育課程が修了するとかなり厳格な資格試験が実施されましたが、合格しない場合も多く、これらの者には当然のこととして医業をおこなうことを禁止していました。しかし次第に医師不足が問題となってきたため、医師の子孫はたとえその本人が医学教育を受けていなくても無検定で医師になれるという無謀ともいえる制度にかわっていったようです。

 施薬院については、奈良時代に光明皇后が興福寺に皇后宮職として設置したものが最初でした(医療の歴史49)。平安時代になるとこれが皇后宮職から独立した存在となり、その規模を拡大させていき、もともと悲田院の管轄であった貧困の住民や孤児の救済までを取り仕切っていました。京の町で飢病者がいると米や塩をふるまうなどの事業もおこなっていたようです。しかし京では一方でかなり非道なことも行われていたようで、奴婢は死が近づくと雇い主は道端に捨てられるなどのことがおこなわれ、道端や河原には白骨がごろごろころがっていたといいます。それはともかくとして、時代が下って荘園が栄え地方に朝廷の力が及ばなくなると施薬院の勢力も衰えてきました。また地方で施薬という大義名分のもと特権を得て横暴な活動が目立つようになったという記録も残されています。