医療あれこれ

医療の歴史(39) 仏教、医療と政争

 仏教伝来は、古代日本の政治的争いに大きな影響を及ぼしました。蘇我氏と物部氏の二大豪族は大和朝廷内での勢力争いを繰り返していました。そこへ百済から伝えられた仏教をわが国が受け入れるのかどうかの判断を迫られたことが、この政争にさらに火をつけることになりました。蘇我氏の時の当主であった蘇我稲目(そがのいなめ)は、このような新しい信仰を早く受け入れて国を繁栄させていくべきだと、時の欽明天皇に奏上しました。これに対して日本古来の神道を深く信仰していた物部尾輿(もののべのおこし)は強く反対しましたが、この反対を押しきって天皇は仏教信仰を許可し、蘇我稲目は仏像を安置するため寺を建立し崇拝し始めます。

naniwaike.jpg ところが、仏教が伝来したとされる538年、国内に疫病が大流行したのです。半島との交流は物品とともに半島からの使者を介して疫病も一緒にやって来ることが十分考えられます。この時の疫病もおそらく仏教とともにもたらされたものだったのでしょう。しかし疫病の流行は神々のたたりであり、時の国政に過失があるためだと信じられていました。物部尾輿は仏教を受け入れたため、国神の怒りにふれ疫病の大流行がおこったとして、寺を焼き払い伝えられた仏像を明日香にあった難波池(写真)に投げ捨ててしまったのです。物部尾輿がこれほど仏教信仰に反対した理由の一つに、物部氏は古来、神道を最も崇拝していたことや、物部氏の専門領域として、軍事のほか医療に携わっていたという自負もあったのではないかと思います。

 しかし物部尾輿のこの対処にもかかわらず、疫病の大流行は収まることはありませんでした。その後、天皇や、尾輿の子である物部守屋が痘(かさ;おそらく天然痘だとおもわれる)を病み、各地で多くの人が痘のために亡くなりました。痘を病んだ人は、身を焼かれ砕かれるように苦しみ、泣きながら死んでいったのです。すると人々はこのような状態は仏教を弾圧したためだ、これを収めるには仏力に頼るしかないと逆に考えるようになり、仏教崇拝は再び広がりをみせることになりました。このようなことがあり激しかった蘇我氏と物部氏の争いは物部氏の没落という結果に終わったのでした。