医療あれこれ

2014年10月アーカイブ

甲状腺ホルモンと心臓

 

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以前にもご紹介しましたが(20121228日;バセドウ病と不整脈)、甲状腺ホルモンが過剰になると心臓の刺激伝導系が亢進状態となり、脈が速く動悸を感じるようになるとともに、心房が細かく震える心房細動という不整脈が発生してきます。その結果、左心房の中に形成された血栓が脳の血管を閉塞して脳梗塞を引き起こします(右の図)。

 その他、甲状腺ホルモンの心臓血管系への影響は、血圧の変動をもたらすことです。甲状腺ホルモンにより心臓の収縮力が高くなることから、上の血圧、つまり心臓が収縮したときの血圧(収縮期血圧)は上昇する一方、全身の血管抵抗性が低下して下の血圧、つまり心臓が拡張した時の血圧(拡張期血圧)は逆に低下します。このことから上下の血圧の差が大きくなります。また甲状腺機能亢進症であるバセドウ病では、心臓から血液を送り出される量、つまり心拍出量が正常の23倍に増加していることが知られています。その結果、心臓から大動脈へ送り出された大量の血液が逆流防止のために存在する大動脈弁に圧力がかかり、開きにくい状態となります。これは相対的な大動脈弁狭窄症の状態にあたるため、聴診器で心雑音が聴かれることになります。

 若い人の甲状腺ホルモン過剰症で、心雑音が聴かれる原因として、このような機序が考えられますが、高齢者になるとさらに別の要因も発生してきます。年齢とともに、動脈硬化などの影響で大動脈弁が硬くなり、大動脈弁の開き具合が悪い大動脈弁狭窄症を発生し心雑音が増強されることとなってしまいます。

 かつてはこれらの弁膜症がおこる原因として、リウマチ熱という溶血連鎖球菌の感染症があり、その後遺症として弁が狭くなる(狭窄症)、あるいはしっかり閉まらなくなる(閉鎖不全症)弁膜症がおこることが主要な原因でした。しかしリウマチ熱が重症化することが少なくなり、最近では加齢による弁膜症の頻度が多くなっています。

 甲状腺ホルモンに限らず、すべてのホルモンの作用はその受け皿(受容体)がある決まった場所(標的臓器といいます)にしか作用しません。心臓は甲状腺ホルモンの主要な標的臓器の一つなのです。

文献:小澤安則 日本医事新報 No.472120141018日号P.64

 藤原四兄弟(医療の歴史47)の父で栄華を誇った藤原氏の実質的な開祖、藤原不比等は長女である宮子を文武天皇の夫人に入れ生まれた皇子(後の聖武天皇:医療の歴史48)の即位を計りました。さらに県犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)との間にできた娘の光明子も聖武天皇の夫人として、天皇家と藤原氏の密接な結びつきを築いていきました。光明子(光明皇后)は仏教を深く信仰していた母の影響もあり、仏教へ帰依して厚い信仰心を持っていたそうです。このことが疫病流行に対して国分寺や大仏建立に至った聖武天皇に大きく影響したと考えられます。

 光明皇后の施療は「あまねく人々を救えば、未来永劫、疫病の苦しみから逃れられる」という仏典をよりどころにしています。医療の歴史(40)で、聖徳太子が四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四院を建てたという伝説は定かではないことをご紹介しましたが、施薬院や悲田院は光明皇后によって本格的なものになっていったようです。この二院は723年、興福寺に置かれました。興福寺はもともと藤原鎌足の病気治癒を祈って京都の山科に建てられ、山階寺として藤原氏の氏寺でしたが、藤原不比等がこれを藤原京に移し、さらに都が平城京に戻ったとき興福寺として現在ある奈良の春日野に移されたものです。

 光明皇后が立后した翌年、興福寺に施薬院と悲田院が設けられたのです。施薬院は皇后宮職の管理下で役人が置かれ、医師・鍼師らの医療に必要な薬草を諸国から買い集めていました。医疾令では、医療職が病人のいる家を巡り治療することが定められていましたが、典薬寮の医師は施薬院から入手した薬をもって都中を廻り、病家に薬を与えていたそうです。さらに自宅では保養できない人、さらに孤児たちを悲田院に収容していました。

karafuro2.jpg また光明皇后でよく知られる話は、浴室での施療です。奈良市の平城京跡に隣接して、光明皇后が病人の治療のために建てたとされる法華寺がありますが、このなかに浴室が残されています。これは古くから「からふろ」と呼ばれており、サウナ風呂のような蒸し風呂だったのでしょう。光明皇后は「からふろ」で、千人の民の汚れを拭うという願を立てました。ところが、千人目の人は全身の皮膚から膿を出すハンセン病者で、皇后に膿を口で吸い出してくれるよう求めたため皇后が病人の膿を口で吸い出すと、たちまち病人は光り輝く如来の姿に変わったという逸話が残されています。


LEDと医療

 青色LED(発光ダイオード)の開発、実用化により3人の日本人研究者がノーベル物理学賞を受賞することが決まったことは、一部の論文詐称問題など日本の研究体質が世界から疑問の目で見られていた現在の状況を一転させる明るいニュースです。LEDをフルカラーの画面に用いるためには、すでに1960年代と1970年代にそれぞれに発見されていた赤色LEDおよび黄色LEDがありましたが、青色LEDの開発が必要でした。つまり光の三原色で赤と緑、そして青の光がないと白色を映し出すことができないからです。しかし青色LEDについては、その原材料になる窒化ガリウムの結晶化技術が困難で、当分不可能だろうと考えられていたところに、日本人研究者たちがこの難関を乗り越えたのでした。

 白色のLEDが登場した1996年以降、2010年頃までにLEDの照明器具が広く普及してきました。LEDは電気を直接光に変えるもので、設備が長持ちすることや、使用電力の大きな節約になります。液晶テレビやスマートフォンの画面ではバックライトに使用されますし、青色LEDによりCDDVDよりはるかに記憶容量が大きいブルーレイディスクが開発されるなど、デジタル家電において多方面に貢献します。

 「LEDと医療」という今回の表題について考えてみましょう。照明関係では、手術室で術者の手元を照らす照明は、従来のものに比べて熱を持たず鮮明に映し出すことから広く普及するようになりました。また同じく発熱量が少なく鮮明な照明であることから、飲み込んで腸内を検査するカプセル型内視鏡に用いられています。さらにLEDにより火傷などで障害された皮膚の再生が可能になり、最近ではLEDの照射により殺菌する治療法に応用されています。

 ところで、青色LEDが初めて発見・報告された1989年からわずか2025年でこれだけ私たちの生活環境に広く使われるようになったということは驚くべき速さです。受賞者で名城大学の赤崎勇先生も、社会への浸透が「こんなに速いとは思っていなかった」とおっしゃっています。同じ科学研究でも将来、問題解決につながるであろう基礎的な分野と、実用に直結する工学技術の実験・開発では随分異なるものであることを実感します。

 ノーベル賞といえば、2年前、iPS細胞で京都大学の山中伸弥先生が受賞されました。iPS細胞の発見・報告が2006年ですが、これを世界で初めて実際の臨床に使用されたのが先日報道された加齢黄斑変性症の症例ですから、一症例の臨床応用までに発見から8年かかっています。今後、iPS細胞を用いたさまざまな疾患の治療が、医療保険で普通に行われるようになるまで、一体どれ位の時間がかかるでしょうか。1015年でそこまで到達すると考えるのはかなり無理があるように思います。医療というものは、生きている人の体を対象とすることから、極めて慎重に行われるべきであるのは当然でしょうが、多くの英知を集束して可能な限り速やかに進めて行きたいものです。

 前回ご紹介したように、政権の中心にいた藤原四兄弟が天然痘により世を去り、朝廷や中央政界はその形態を維持できないほどになっていました。地方でも疫病の流行や飢餓により国全体が荒廃し政情は全く不安定状態だったのです。

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 さらに追い討ちをかけたのが、740年に勃発した藤原広嗣の乱です。藤原広嗣は、藤原四兄弟の三男で四兄弟のうち最後まで生存していた正三位、参議、式部卿の藤原宇合(うまかい)の長子で、九州の太宰府に赴任していました。九州地方の惨状を目の当たりにした広嗣は、この社会情勢は中央政府の失政によるものだとして反乱を起こしたのです。藤原広嗣の乱は何とか鎮圧されましたが、政府の動揺はおさまらず、ときの天皇、聖武天皇は都を平城京から恭仁京(くにきょう:京都府木津川市)、難波京(大阪市)さらに紫香楽宮(しがらきぐう:滋賀県甲賀市)に次々と遷都しました。また疫病の流行地に医師を派遣したり、病人に医薬を与えるなどの措置を実施し、何とかこの危機を解消しようとしていました。

 もともと仏教を厚く進行していた聖武天皇は鎮護国家の思想により安定をはかろうとし、741年、国分寺建立の詔を出し、国ごとに国分寺、国分尼寺を設けさせることにしました。ついで743年、紫香楽宮で大仏建立の詔が出されたのです。745年に奈良平城京にもどった聖武天皇は娘の孝謙天皇に譲位した752年、奈良東大寺大仏が約9年間の歳月をかけて完成し、大仏開眼の壮大な儀式が執り行なわれました。この儀式には大勢の政府関係者の他、インドや中国から渡来した僧を含め約1万人の僧が参列したそうです。これは後述しますが、当時の医療者の中心が僧医であり朝廷や政府高官の病の診療に携わったことから朝廷から厚い信任を得る場合が多かったことと関連があったと考えられます。