医療あれこれ

2014年9月アーカイブ

 藤原氏は後年、平安時代中期に中央政権において藤原道長を代表とするように絶大な権力をふるいました。最初に藤原氏を名乗ったのは、645年当時の権力者であった蘇我入鹿を殺害し天皇中心の政権を作った大化の改新において中大兄皇子(後の天智天皇)とともに活躍し、天智天皇から藤原姓を賜った中臣鎌足(藤原鎌足)です。

 鎌足の次男である藤原不比等(医療の歴史41参照)は708年、右大臣となり政権の中央に座り、720年(養老4年)の死後、正一位太政大臣を贈られています。これらのことから栄華を誇った藤原氏の実質的な開祖は藤原不比等であると考えられます。また不比等は天智天皇から大変な厚遇を受けたことから、平安時代後期の歴史物語「大鏡」などには、不比等は藤原鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤である可能性が記載されています。

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 ところで720年の不比等の死因については謎もあり、毒物による中毒説などもあるそうですが、当時の疫病流行を考えると痘瘡(天然痘)ではないかと考えられています。天然痘は天然痘ウイルス(右の電子顕微鏡写真)が病原体で、空気中からの飛沫感染や患者の膿などへの接触感染が原因で発症します。発症すると高熱が続き、豆粒状・丘状の皮疹が頭部・顔面から全身に拡がり、内蔵障害を伴って重症になると呼吸困難で死亡するものです。天然痘の歴史は古く、紀元前エジプトのミイラにも天然痘感染の跡が残っているそうですが、以前この項(医療の歴史20参照)でもご紹介したように、1796年、ジェンナーが開発した種痘法により、天然痘ウイルスは現在地球上から完全に撲滅されています。

 日本では6世紀の初めにも大流行があり物部守屋が発症したことは以前にご紹介しました(医療の歴史39)。奈良時代では、714年頃から日本と交易があった朝鮮半島の新巍で天然痘の大流行があったのですが、日本から遣新巍使が派遣されたとき、多くの人が天然痘に感染し、生還した人は天然痘ウイルスを日本に持ち帰ったことになり、735年頃から日本でも大流行がおこりました。当時の朝廷内にも流行は及び、藤原不比等もこの病に倒れたのではないかと考えられます。

 不比等には4人の子息がいました。長兄から順に藤原武智麻呂(藤原南家)、藤原房前(ふささき:藤原北家)、藤原宇合(うまかい:藤原式家)、藤原麻呂(藤原京家)で藤原四兄弟といわれています。皆それぞれ若い頃から政権の要職にありましたが、不比等の死後、政権の首班となった皇族の長屋王を策謀により自殺させ藤原氏中心の政権を作り上げたのです。しかしこの四兄弟も次々と天然痘を発症し、若くして亡くなってしまい、藤原氏は大打撃を受けたのです。また藤原氏だけでなく、多くの官人もこの疫病で亡くなり、朝廷で恒例の年中行事も実施できない状態になったのでした。

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 食品中の脂肪は糖尿病発症と重要な関係があることが知られています。これまでの研究では、動物性脂肪に比べて植物性脂肪を摂取する方が糖尿病予防に有用であることが示されています。一方、乳製品については、摂取量が多いほど糖尿病発症に対して予防的に働くことが疫学研究で判っていますが、乳製品の脂肪含有量との関係は明らかではありませんでした。

 この度スウェーデンの研究者らがこの関係を調査研究し、91519日ウィーンで開かれた欧州糖尿病学会で報告しています。約27千人の人を対象として、14年間追跡調査し、乳製品に含まれる脂肪の多少により糖尿病発症が影響するかどうかをみたものです。

 14年間の追跡期間中に2,860人の人が糖尿病を発症しましたが、高脂肪乳製品を摂取していた人は、糖尿病発症が統計学的に有意な低率であったそうです。乳製品別にみると、生クリームの摂取量が多いほど糖尿病発症リスクが15%低いことが示されました。一方、精肉や加工肉から脂肪を多量摂取すると、逆に糖尿病発症リスクが上昇するという結果でした。

 これらのことから、乳脂肪の摂取が糖尿病予防に少なくとも部分的には関与している可能性が示唆されることになります。しかし、「やみくもに高脂肪乳製品を増やすことは勧められない。糖尿病発症だけでなく、心臓血管疾患の発症リスクなども考慮すべきである」と発表者は述べてといます。

デング熱の重症化

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 本年の8月下旬から、デング熱に感染した人が増加していることはご存知の通りです。デング熱は熱帯病の一つであり、デングウイルスが病原体ですが、このウイルスはヤブ蚊(右の図)により媒介され、人から人への感染はありません。東京の代々木公園周辺で蚊にさされたことによりデングウイルスに感染して発症した人が最初に報道されたことから、感染者は当初、東京在住の人に発症した報道が多かったのですが、その後、埼玉、神奈川、千葉、新潟、大阪、山梨、北海道、青森、岩手、茨城、群馬、山口など全国的に広がりを見せています。

 デングウイルスを持ったヤブ蚊に刺され感染すると、27日後に突然の発熱が現れて発症します。顔面紅潮や食欲不振、腹痛、吐き気、頭痛、筋肉痛などの多彩な症状が現れ、数日後には皮膚に発疹が出現することもありますが、ほぼ1週間で症状は軽快します。しかしまれに重症化することもあり、この場合は血液成分のうち出血を止める作用がある血小板の数が減少し、出血症状が著明に出現することからデング出血熱と呼ばれています。この重症型を放置すると胸や腹に水が貯まり(胸水、腹水)、血圧低下を起こし場合によっては生命に関わる場合もあるようです。

 9月の初めに開催された日本神経免疫学会、日本神経感染症学会で、このデング熱が重症型となるメカニズムの一部が明らかにされました。それによると、デングウイルスに感染し、体内でウイルスが増殖すると、免疫を担当する白血球の一つであるTリンパ球が活性化され、これが原因でインターロイキン、インターフェロンなどのサイトカインと呼ばれる免疫関連タンパクが増殖するなどの免疫異常が重症化に関連しているといいます。しかし、これらの免疫系変化は、デング出血熱の原因なのか、重症化による結果なのか不明な部分もあり、さらに研究が進められているとのことです。

 なお、デング熱の重症化は1%以下でまれとされています。しかし特に重症化しやすい場合として、日本産婦人科学会では、妊娠中の女性では通常の約3倍重症化しやすいので要注意であるとしています。妊婦さんは、虫刺され予防スプレーを使用するなど、特に蚊にさされないように注意することを呼びかけています。

 日本で最初に著された医学書は799年、和気広世による「薬経太素」といわれています。和気広世は、奈良時代後期から朝廷に仕え楠木正成らと同様に勤皇の忠臣とされていた和気清麻呂の長男で、和気家は広世以後代々医家として継承されていきます。しかし和気広世の著した原本の内容は散逸してしまい、後世、室町時代か江戸時代に書き直されたものとされています。次に古い医書は、平城天皇の治世808年に、安部真直らにより著された「大同類聚方」で、100巻にも及ぶ大著でしたが散逸してしまいました。最近まで断片的に伝えられる内容が大同類聚方原本の一部であると考えられていましたが、現在では否定的な説が多く、後世の記述ではないかと考えられています。

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 原本の形を今に伝える最古の医書は、典薬頭も勤めた丹波康頼が928年に著した「医心方」です。原本は丹波康頼から宮中に献上され、永らく宮中の秘蔵書となっていたことから、時代の変遷による散逸もなく、そのまま現在に伝えられているのです。室町時代になって、丹波家とともに代々の医家代表であり当時の典薬頭であった半井瑞策に下賜されました。

 医心方の内用は、丹波康頼が隋や唐の医書120あまりを引用して書き上げられた30巻からなる医学全書です。その内容は、医師の心得、薬物の注意点から始まり、鍼灸に関すること、内科、外科、眼科、耳鼻咽喉科、産科、婦人科などあらゆる医学領域におよび、最終の第30巻には穀物、野菜、肉類などの健康食品にも触れられています。

 医心方の著述に引用された中国などの医書は、現在では散逸して存在しないものも多く、医心方は古代東洋医学の内容を知る上で欠かせないものとなっているそうです。(引用文献:酒井シズ 日本の医療史)

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